May5.2019 一ノ瀬城

5月5日は端午の節句として子供の日を祝うのが一般的である。しかし竹内流備中伝では、一ノ瀬城の忌み日としてとらえている。
一ノ瀬城の築城年月は明らかではないが、竹内久盛が京都から久米郡塀和郷に移住した1518年(当時15歳)から竹内流の秘伝を山伏から授かった1532年(当時29歳)の間と推定される。
この一ノ瀬城は1580年5月5日に、宇喜多直家に攻められ、火焔に包まれて、落城するまでの約60年弱、久盛の居城であるとともに、竹内家を盟主とする塀和郷武士団の結合の象徴としてそびえていた(日貿出版 竹内流)
1577年に宇喜多が毛利を裏切り、織田・羽柴と組んだため、美作は宇喜多・毛利の戦場となった。宇喜多直家は、毛利輝元の援軍を期待し、籠城作戦を取った久盛に対して、毛利が吉川(鳥取市)で羽柴軍と交戦している間に、一ノ瀬城を焼き討ちにする戦術をくわだてた。

山岳戦では竹内勢に勝ち目がないと判断した宇喜多直家勢は、石つぶてによる石砲攻めにして、竹内勢を場内に押し留めた後に、「注箭雨下隙間なし」と形容されるように、矢攻め、火箭攻めにしたのである。城兵は、小具足腰之廻を駆使する戦術を封印され、火と煙に追われて、城を後に尾根づたいを落ち延びたという。
一ノ瀬城の頂上には摩利支天の小祠は、竹内家の守本尊で毎年6月23日を以って祭日としている。
渡辺人信師範と高城人継
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天正7(1579)年の3月3日に、三ノ宮の戦で、竹内勢は宇喜多勢に敗れ、5月5日には羽柴秀吉軍の後援を得た宇喜多勢が一ノ瀬城に押し寄せ、落城。このため、節句は不吉という言い習わしが久米郡にはある。一ノ瀬城落城時、久盛79歳。永禄9(1566)年生まれの久勝は13歳。久盛らは孫の原田氏の稲荷山城に奇遇する。
出典 私説美作略史 竹内治一 編 著
同上
流祖久盛ははじめ尼子に仕え、その後、一時毛利に仕えたが、宇喜多に一ノ瀬城を攻め落とされて以来、いずこへも仕えず、子孫も又代々天下に盛名を馳せたが、いずこへも遂に仕官せず(しかし宗家師範をのぞき、一門高弟は全国33藩の指南役で活躍した)、又いずこからも録を受けることなく、そして流儀を相伝するに当たっては、特な武士のみを重宝することなく、百姓、町人を子弟として流儀を伝えて今日に至っていることであり、まことに見事という他はない。
(私説美作略史 pp873)
竹内久盛が一ノ瀬城の落城にあたり、小具足腰之廻による戦闘では、飛道具を中心とする戦争には勝てないとして、戦国武将として残るために、久盛や久勝が剣や小太刀の稽古よりも、軍備や兵站の増強に努めていたら竹内流は残らなかったであろう。久盛や久勝が命や人生を賭けて残そうとした竹内流とは自他の活路を見出す戦国由来の武術である。

戦国時代を終わらせようとした信長、秀吉、家康が時代を先導する中で、
家康は国同士の争いも、個人の私闘も封じ込めようとしていく。そうした時代の流れの中で、竹内流はその武術を活用していく。

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