#竹内流備中傳 について about #Takenouchiryu #Bitchuden

竹内流備中傳の人継(ひとつぐ)です。

竹内流備中傳を稽古しています。約500年にわたり多くの先人が継承してきた精神文化や技術体系は本当に素晴らしいと思います。  


世界各地で稽古し続ける人達の間で、竹内流備中傳を共有財産にできるよう、日々の稽古風景や気付きを記録することで、稽古のヒントや参考になればと思っています。竹内流備中傳にご関心のある方や体験稽古、入会、入門をご希望の方は、高城人継(GEF01717@nifty.com)にご連絡ください。


東京 備中竹内流では入会後、半年以上〜約一年間稽古を続けていただき、双方が合意すれば、入門の上、本格的に稽古を進めていただくことにしています。
入会申請書(英/日)
左 備中伝16代 小野真人先生、
右 17代 高城人継
竹内流備中傳
http://takenouchiryu-bittyuden.com/
日本最古の柔術といわれる総合古武道
 竹内流は、天文元年(1532)戦国武将、竹内中務大輔源久盛によって創始された日本最古の柔術であり、日本柔道の源流と云われています。

 小具足腰之廻と称する小太刀を用いた組討術と、敵を活かして捕らえる捕手術や羽手(破手)といわれる護身の拳法躰術を主体として、剣法斉手、居合抜刀術、棒・杖術、捕縄その他の武器術(薙刀、槍、鎖鎌、十手、鉄扇、手裏剣など)および活法などを伝承する総合古武道です。

 久盛が創始した流儀は、子の二代目久勝、孫の三代目久吉と三代にわたり一子相伝(家伝)される中、この間の武者修行や真剣勝負を通じて、備中をはじめ諸国の支流・分流を育みつつ体系化されました。

「竹内流備中伝」は、三代目竹内加賀之介久吉の門人、竹内清太夫正次(備前岡山藩士)が竹内流の印可を受けて、備中(現岡山市、倉敷市)を拠点に伝えた系譜であり、宗家・相伝家の伝系とは別に流儀を継承しています。
   
 流儀の特徴の一端を表わすものとして「絡めて討たず」という技と精神があります。これは敵を絡め捕ってもその命を尊び活かすものです。それを体現する強く逞しい体と健全な精神、優しい心を養う稽古が備中伝の修行です。
         
全国各地の道場で一流の護身術を稽古できます。
 竹内流宗家、相伝家は、創始以来の家伝の流儀、秘伝を今なお発祥の地(岡山県御津郡建部町)において「一子相伝」で継承されています。

 この間、備中伝の歴代の師範も広く門戸を開いて各地で門弟を育成されてきたことから、今なお多くの門人が稽古しています。
 
 古武道は武術であり、格闘技や競技スポーツとは異なる危険を伴う場合があります。当流には他の武術武道、格闘技の経験者もいますが、女性や子供・高齢者、武道未経験者でもその身体操作能力に応じて棒術や体術などから無理なく、安全に稽古を開始でき、継続すれば護身術の修得や身体操作能力の向上が図られます。 

 仁義礼智信の教えに基づく、古武道の稽古を通じて、自他と向き合い、護身の心得だけでなく、万物への感謝の心、正しい姿勢や呼吸法、食生活や健康に関する関心、たおやかで伸びやかな精神力、豊かな人間力などが養われます。多種多様な価値観の人との出会いの中で行う稽古は、とても楽しく刺激的で人格の向上にも役立つと思います。

 竹内流備中伝の道場は、岡山・倉敷近隣だけでなく、京都・大阪、東京・千葉・横浜、アメリカ、イギリス、カナダなどにもあり、随時、見学・体験稽古ができます。
東京近郊の稽古日
月曜日 音羽道場 19:00~20:45  
               日野道場 19:00〜20:50
火曜日 豊岡道場 18:30〜21:30
               錦糸町道場 19:00~20:50
水曜日 玄風館道場 18:00~20:00 
木曜日 錦糸町道場 19:00~20:50
金曜日 なし 
土曜日 中野道場 9:00~12:00 
              津田沼道場 9:00~12:00 
              音羽道場 14:30~17:30
              玄風館道場 11-13(非定期)
              横浜根岸 13-17(同上)
● 全国の竹内流備中伝道場

東京・新風館 中野道場
高城人継師範、鶴見継真師範、
田村師範代、小坂・新澤・福島代稽古
場所:中野区内体育館、
日時:毎週土曜日 午前9時~正午
照会先 高城人継
(mail:GEF01717@nifty.com)
   
東京・新風館 音羽道場
高城人継・鶴見継真師範、
石榑・田村師範代、小坂・新澤・福島代稽古
場所:文京区内体育館、
日時:毎週土曜日 14:30~17:30
照会先 高城人継(mail:GEF01717@nifty.com)
  
東京・玄風館道場 白石人紀師範、
         斉藤師範代、鶴見継真後見師範
照会先 斉藤師範代:genpukan_admin@genpukan.net
  
東京・新風館 豊岡道場 高城人継師範
場所:東京都港区施設、
日時:毎週火曜日1830-2130
  
東京・新風館日野道場 高城人継師範・ベンジャミン代稽古
場所:東京都日野市内体育館、
日時:毎週月曜日18:30-21:00

東京・新風館錦糸町道場
場所:東京都墨田区内体育館、日時:毎週木曜日夜)照会先 e-mail:HCD01653@nifty.com
  
千葉・新風館津田沼道場河野真通先生
場所:千葉県習志野市内体育館、日時:毎週土曜日9:15~正午)照会先 e-mail:HCD01653@nifty.com

倉敷・日新館道場 中山 真承館長
岡山県倉敷市帯高 202-4
(セブンイレブン倉敷帯高店西隣)
℡086-428-0007
     
倉敷・眺雲館道場 
大島 洋志源真雲先生
眺雲館 E-mail yukihito1@mx1.kct.ne.jp 
〒713-8123 岡山県倉敷市玉島柏島5451
TEL・FAX 086-526-0438 chounkan@ezweb.ne.jp

・倉敷武道館(岡山県倉敷市四十瀬)電話086-466-0049

・倉敷道場 花房弘真源雲舟先生
〒710-0014 岡山県倉敷市黒崎288-12 TEL 086-462-4608
・玉島道場 畑 洋佑源雲泉先生
〒713-8121 岡山県倉敷市玉島阿賀崎 1950-3 TEL086-526-5241
・総社道場 大島尚之先生
〒719-1126 岡山県総社市総社 1390-3 TEL 0866-94-1056
・岡山道場 大森重和先生 
〒702-8044 岡山県岡山市福島 3-13-1 TEL 086-265-0298
・呼松道場 岡田幸仁先生
〒712-8053 岡山県倉敷市呼松 1-2-8  TEL 086-456-0694

京都・聴風館道場 小野 真人先生
京都市北区大宮釈迦谷10番地 ℡075-491-4097
    
西宮・仁風館道場 渡辺 人信先生
活源堂~西宮わたなべ整骨院 院内 
〒663-8032 兵庫県西宮市高木西町4-19 0798-65-5031
    
聴風館道場 越谷支部 
中前師範代 土、日曜日(不定)。
照会先:eamakany@willcom.com

米・ハワイ・正風館道場
http://www.seifukanhawaii.org/index.htmlU.S.A Hawaii Seifukan Dojo
Wayne Muromoto sensei
(Alex / Hitotsugu / Wayne)

米・アイダホ・暁風館道場 Antony Abry sensei
U.S.A Idaho Gyoufukan Dojo

英・ヨークシャー・松風館道場Ms.Anna Seabourne sensei
アンナ・シーボーン取立師範
UK Yorkshire Shou fu kan Dojo (松風館道場)

カナダ・バンクーバーUBC・翔風館道場
Mr.Alexander D.C. Kask senseiUniversity of British Columbia in Vancouver, BC, Canada. Shou fu kan Dojo (翔風館道場)

竹内流備中伝
取手稽古会
代   表:村上四段代稽古(Yuji Murakami)
連絡先:biotan@jcom.home.ne.jp
稽 古 日時:土曜日午前9-12時
場  所:茨城県取手市内体育館
Takenouchi Ryu Bittyuden Study 
Takeuchi Ryu bittyuden Study Group - Quito, Ecuador / Graham Pluck 

Ryuufukai:http://annarborbtr.com/
Dr.Andrew Antis' study group. 
竹内流の系譜
 現在伝承されている竹内流備中伝の系譜です。

「備中伝」とは、「歴史上、備中国に存 在した竹内流の道統の総体」です。備中伝は流儀創建以来、岡山県内一帯に広く弘流され、とくに 備中国において大変盛んで、往事には独自の伝系をもつ道場がたくさんありました。備中生坂藩の 系統(三代目加賀之介久吉師範につらなる系統)のほかに連島(つらじま)の系統(十代目久雄師 範に連なる系統)などがあり、これら備中国に伝承された系統を総称して便宜的に「備中伝」と呼 んでいます。

元祖 竹内中務太夫久盛
二代 竹内常陸介久勝
三代 竹内加賀介久吉
四代 竹内(菊池)清太夫正次
五代 山本数右衛門久儀
六代 清水吉右衛門清信
七代 吉田茂市清房
八代 石河宗介仲直
九代 三宅清七郎常明
十代 森 源介勝政
十一代 高嶋仁太夫久行
十二代 高木(旧姓渡辺)利忠治久信
十三代 山崎久治信正
十四代 竹内綱一正取
十五代 中山和夫取真
十六代 小野陽太郎真人

○ 元祖  竹内中務太夫久盛
竹内流元祖正五位下 一之瀬城主。 
父は播磨守従四位竹内幸治。元服前、京都元愛宕山(現、大宮釈迦谷山)に於いて家伝の源氏の剣 法を修行。
美作国久米北条郡垪和郷一之瀬城主、天文元年壬辰年六月二十四日、垪和郷三之宮に参篭し愛宕神 を拝し満願の日、神伝により捕手五ヶ条、捕手腰之廻二十五ヶ条を起流す。
其の後工夫を重ね、神伝により兵法、捕縛縄、棒槍、太刀抜刀、拳法躰術を編出し、竹内流武術の 基礎を固む。
文禄四乙未年六月三十日没、九十三歳。法名宝朱印伝栄照道義大居士。

○ 二代  竹内常陸介久勝
 久盛次男。日下捕手開山竹内流二代目師範。俗称藤一郎。父に勝る達人となる。白 刃の下諸国修行八年(※23歳~30歳、「予、勝ツ」との旗印を立てたという)、久勝に打ち勝つ者 皆無。諸国に多く門弟を育て、竹内流を広む。帰郷し垪和郷角石谷豊作原に道場を構える。 元和四年嫡男久吉を伴い京都西山に道場を開き、後水尾天皇上覧を賜りて日下捕手開山の 称号勅許を賜る。父久盛の起流したる捕手腰之廻を補強し、必勝五件、極意八ヶ条を初め妙技を興 す。家法の掟、兵法歌、心要歌を残し竹内流を大成す。門人数千人。寛文三卯年九月十日没、九十 八歳。法名正覚院日澄雲禅定門。

○ 三代  竹内加賀介久吉
久勝長男。日下捕手開山竹内流三代目師範。幼名雅楽介、後に藤一郎通居の勅許賜る。元和六 年父久勝と共に京西山で天皇上覧の栄誉に輝き、帰郷後武者修行十年久吉に勝つもの無し。天下に 竹内流を広む。修行より帰りて藩主森忠政の招きを受け城下の竹内道場で藩士の指南にあたる。 寛文三年久且久次の二子を伴い京都に上り、鷹司関白の労によりて霊元天皇の上覧を賜り 、日下捕手開山の勅免御綸旨と歴代藤一郎通居の栄誉に輝く。久吉新道場を垪和郷角石谷天狗山中 腹に移し、竹内流の完成に努む。 三徳抄、五常之徳を著し竹内流精神を固め、神技裏極意を起流し、父祖三代による流儀の 完成。門弟六千余人。寛文十一辛亥年三月六日没、六十九歳。法名青雲院月山浄教居士。

○ 四代 竹内(菊池)清太夫正次
 久吉門弟、竹内流印可、池田家備前岡山藩士、竹内姓を賜る。備中竹内流の祖。竹内清太夫正次 は備前岡山藩士。播州大阪生れ、元は菊池姓、祖父菊池弥右衛門、 父菊池佐兵衛、祖父、父共に豊臣家に仕え、大阪の陣で父は浪人。竹内清太夫は寛文元年11月に 池田家(岡山藩)に31俵5人扶持で御徒に召しだされた。

○ 五代  山本数右衛門久儀
 備中生坂藩指南役

○ 六代  清水吉右衛門清信
 備中生坂藩指南役

○ 七代  吉田茂市清房
 備中竹内流免許

○ 八代  石河宗介仲直
 備中竹内流免許

○ 九代  三宅清七郎常明
 備中生坂藩指南役

○ 十代  森 源介勝政
 児島郡に広める

○ 十一代  高嶋仁太夫久行

○ 十二代  高木利忠治久信
 旧姓渡辺利忠治。
 十代藤一郎久雄にも師事。

○ 十三代  山崎久治信正
 勇武館師範、倉敷代官所与力職。司箭流

五 山崎久治翁頌徳碑 
(原文略) 
【訳文】 
 山崎久治翁は柔道の先生である。諱は信正といい、通称は久治という。都窪郡豊洲村に生まれ、 家は代々農業であった。 
 山崎翁は幼い頃から武術を好み、高木利忠次久信氏について柔道を習うこと十年余、ついにその 奥義をきわめ、その名声は付近一帯に響き渡り、弟子になる者が非常に多かった。 
 翁は勇気があり、質素でなにごとも自分で実行し、おごり高ぶらず、誠実をもってすべての事を なすような性格で、弟子を教えることにまことに懇切であったので、その評判は日を追うて盛んに なったのである。 
 明治四十一年、山崎翁が七十歳になられたので門人達が相談し、碑を建ててその徳を賛えようと 思い、そのことを山崎翁に申しあげた所、翁はどうしても承知されなかった。が、その後なん度も おすすめしたので、翁もようやく承諾されたのである。 
翁の志は、長男の久次郎正秀氏がついで、盛んにやっておられるので、翁の徳は亡びることがない 。そのことを碑に記して後世に伝える次第である。 
    (この碑は金比羅宮前庭にある) 
改訂版 茶屋町史 平成元年十一月二十日発行
(旧版 茶屋町史 昭和三十九年三月三十一日発行) 
p309?310 
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井谷岩三氏頌徳碑
夫れ日本精神の発する処内皇国無窮の隆昌を図り外皇道を四海に宣揚するにあり而して武道を以て 之が実践の範を示されたる井谷岩正行三先生を有することは我が郷土の最も誇りとする所なり。先 生は元治元年早島町に生まれ、明治十七年柔術竹内流元祖作州垪和竹之内中務太夫久盛十三代備中 豊洲村山崎久治信正先生の門に入り修行九年にして免許皆伝並に道場免許を授けられ爾来愛武館を 創設し専ら郷党青年の為武道の教導に努めらる後更に志を立て単身渡米し滞在すること八年。其の 間在留同胞の薫陶を致すは勿論広く白人の間に柔道の真髄と神技を示し我武道精神を明かならしめ 以て皇道を海外に発揚せり。次て再び郷土の人と為り自邸並に近郷五ヶ所に道場を設け門弟青少年 の武術師範たること三十有余年。孜孜として修研鑽を重ね就中其妙技たる早技の術は実に入仲の境 地に達し大正十三年五月大日本武徳会岡山支部教師に推薦せらる。先生今や古希を超えて矍鑠壮者 を凌ぐの概あり。諺に曰く武の人は心の人なりと。武道に勝れし先生は亦高潔なる人格者として郷 党崇敬の中軸をなし衆望自ずから帰し推されて町会議員たること三期地方自治の為にも克く尽瘁貢 献せらる。洵に先生のごときは偉大なる日本精神の体得者にして地方稀に見る高士なり。茲に先生 入道五十周年を期し門弟相寄り多年の高恩に報ゆる為、地を城山の勝地に卜し、此処に碑を建て先 生の遺績を永久に伝へんとす。 
   昭和十三年五月     陸軍大臣    宇垣一成篆額 
           岡山検事局思想検事 
           岡山保護観察所長     林 隆行 撰 
           八十一翁         森谷敬之 書   
以上『早島町史』398ページより転載 
石碑は早島の城山にある千光寺の一角にある。

○ 十四代 竹内綱一 正取
 日新館初代館長・師範、昭和三十七年没。
 岡山大学古武道部師範。
 竹内流竹内先生頌徳額(岡山市吉備津神社) 
養老竹内綱一源正取先生ハ竹内流道場日新館ヲ主宰シ戦後全国ニ魁ケ 岡山大学古武道部ノ創設サルルヤ学生ヲ誘掖シ青年ノ士気ヲ鼓舞サル ココニ先生ノ人トナリヲ欽 慕スル門人吉備津神社ノ大前ニ額ヲ奉献シ日本武道ノ興隆ヲ冀フト共ニ先生ノ懿徳ヲ不朽ニ伝ヘン ト欲シ文ヲ余ニ嘱ス 因テソノ由来ヲ記スコト此ノ如シ 
岡山大学教授文学博士 林秀一 
                         船浅次郎 謹 書 
                         昭和三十九年  

○ 十五代 中山和夫 取真
 日新館二代館長・師範。岡山大学古武道部二代師範。

○ 十六代 小野陽太郎 真人
聴風館師範。同志社大学古武道部師範。
昭和五十三年皆伝師範印可。平成二年代十六代を賜り分家。

○ 十七代 高城人継
 新風館師範。令和二年皆伝師範印可。


竹内流の支流・分流

竹内流が広く諸藩で行われ、多くの門弟を抱えたのは「日下捕手開山」の称号だけが理由では ありません。

久勝以降、歴代の師範は武者修行や全国巡回の折に他流試合を行い、そこで武芸者を門弟とし て取り立てています。その多くは高弟となって竹内流を伝え、また竹内流の技法に独自の工夫を加 えて新たな一流を起こしています。
こうして全国に竹内流と、同流を基盤とした流派が生まれることになりました。竹内流が「柔 術の源流」と称されるのはこうして流儀を広め、多くの柔術の基盤となったためといえるでしょう 。

竹内流から発展した流派について、「日本柔術の源流 竹内流」(pp252~256)から抜粋する と次の通りです。なお、同書にも断り書きがされているように、今後の調査によって不詳なところ が明らかにされる可能性もあるとの認識が必要です。

各流派とも竹内流との交流があってから、何百年もの歴史を重ねているうえ、更なる研鑽を重 ねて流儀を継承されていることから、現在、各流儀の継承者の方々や現役で稽古されている方々が 、どのように竹内流をご覧になっているかお話をお伺いしたいものです。

○ 竹内畝流(竹内新流ともいう)
竹内流の祖久盛の嫡男久治(五郎左衛門)が創始したもので、竹内新流とも称され、特に剣に おいて名高く、畝流三代目の軍兵衛久重は達人として知られた。その子伊織久臣も勇名をはせ、備 前岡山の池田藩主の元で指摘し、竹内流太刀では当代並ぶ者がいなかったという。門弟には同藩士 の垣見七郎左衛門など、多くの人材が排出した。
─ 竹内新流 竹内睦泰先生のHP
師範名 略歴
竹内中務大輔久盛 竹内流元祖正五位下 一之瀬城主
竹内五郎左衛門久治 竹内畝流元祖、一之瀬城代久盛長男。垪和郷一之瀬城落城後、石丸に父と 帰農す。弟久勝が竹内流二代目を継いだため、工夫努力して新流を創建し是を竹内畝流と称す。
竹内四郎兵衛尉久保 畝流二代師範、郷士。
竹内軍兵衛久重 畝流三代師範、郷士。是の主は身丈四尺余りの小兵なるも技神技にして名 声高し。
竹内籐平久昌 畝流四代師範、郷士
竹内丹蔵久吉 畝流五代師範、庄屋
竹内興次兵衛久高 畝流六代師範、庄屋
竹内軍平久徴 畝流七代師範、庄屋
竹内豊蔵久朝 畝流八代師範、庄屋
竹内虎治郎久信 畝流九代師範、庄屋。竹内畝流は九代久信の代に終る。
竹内久米太郎久治 石丸十一代、年寄役。
竹内音五郎久治 石丸十二代、年寄役。
竹内房太郎久勝 石丸十三代
竹内軍平久光 石丸十四代
竹内隆久忠 石丸十五代

○ 双水執流(二上流ともいう)
 二上(神)半之丞正聡という人物が創始者で、彼は流祖久盛に師事し、竹内流を修めたといわれ る。久盛の晩年の門弟といわれ、竹内流免許皆伝のあと、二上は諸国を修行し、あるとき水の流れ を見て大悟するところあり、そのため、双水執流と名づけた。のちに九州黒田藩に仕え、その指南 役となった。
師範名 略歴
竹内中務大輔久盛 竹内流元祖正五位下 一之瀬城主。
二上某 久盛門弟、竹内流免許、二上流柔剣。
二上半之丞正聡 竹内流印可皆伝、二上流腰之廻、双水執流組討腰之廻流祖となる。
田代清治郎則忠 略歴不詳
舌間新次郎 略歴不詳
舌間喜兵衛 略歴不詳
大野弥兵衛宗勝 略歴不詳
舌間作五郎宗康 略歴不詳
榎本久右衛門忠直 略歴不詳
舌間七郎宗益 略歴不詳
臼杵卆郎宗道 略歴不詳
舌間直次郎宗章 略歴不詳
舌間志多宗綱 略歴不詳
松井百太郎宗忠 福岡県双水執流、日本武徳会範士。
松井福五郎宗継 略歴不詳
 福岡で約350年東京で約120年に渡り続いている流派で、組討(柔)と腰之廻(抜刀術 )があり、現在も福岡の宗家及び東京の松井派により稽古が続けられています。
双水執流組討腰之廻 清漣 館
社団法人隻流館トップページ
 
○ 伯耆流腰之廻
 創始者片山伯耆守久安は美作国苫田郡二宮庄の人で、『武芸旧話』によれば竹内久盛の舎弟とな っているが、これは誤りである。久安は久盛の次男、二代目の久勝と同時代の人で、久盛より腰之 廻小具足を学び、自ら工夫を重ね、愛宕神を崇敬ののちに抜刀術を創始し、片山伯耆流剣と号した 。吉川藩。

○ 高木流体術
 美作の領主、森忠政の家臣で高木右馬之助重貞は藩内随一の大力無双の人であったが、竹内流三 代目の加賀之介久吉と立ち合い、小兵の久吉に敗れ、竹内流の門弟となった。彼は二代目久勝の教 えを受け印可に達し、のちさらに工夫と研鑽を重ね、高木流体術を創始した。津山藩。高木右馬之 助の一子高木源之進は父に勝る達人となり、高木流柔術を工夫した。この流儀は大変発展したとい う。
師範名 略歴
竹内常陸介久勝 日下捕手開山竹内流二代目師範、俗称藤一郎
高木右馬之助重貞 久勝門弟、竹内流免許、高木流体術の祖。津山藩武術指南役、竹内流三代 加賀之介と藩主御前試合に敗れ、二代久勝の門弟となり免許皆伝を授かり、後に高木流体術を起流 す。
高木源之進 竹内流免許、高木流柔術

○ 無関流体術
 高木右馬之助の門弟に香川六郎左衛門正重という者があり、竹内流と高木流体術の免許皆伝のあ と、師の号である無関を奉じて無関流体術を創始した。以上の高木流・無関流は土佐藩、岩国藩、 尾張藩に伝わった。
師範名 略歴
竹内常陸介久勝 日下捕手開山竹内流二代目師範、俗称藤一郎
高木右馬之助重貞 久勝門弟、竹内流免許、高木流体術の祖。津山藩武術指南役、竹内流三代 加賀之介と藩主御前試合に敗れ、二代久勝の門弟となり免許皆伝を授かり、後に高木流体術を起流 す。
香川六郎左衛門正重 竹内流免許、後に工夫して無関流体術の祖。

○ 戸田流小具足
 竹内流二代目の久勝が諸国を修行中に尾州で立ち合った戸田五郎兵衛は、久勝の門弟となって竹 内流を学び、奥儀を授けられ、戸田流の剣とともに竹内流小具足組討を取り入れ、一派を編んだ。

○ 田辺流(行覚流ともいう)
 二代目久勝の門弟で田辺八左衛門長常は、流儀印可を授かったあと工夫を重ね、田辺流居合術を 創始した。福井県居合。
曲淵流
 三代目久吉の門弟で江戸四谷の住人、曲淵隼人は竹内流の皆伝を授かり、のちに曲淵流を創始し た。
師範名 略歴
竹内加賀之介久吉 日下捕手開山竹内流三代目師範
曲淵隼人 久吉門弟、竹内流免許、曲淵流元祖。江戸四谷に道場を構える

○ 力信流
 久吉の門弟、官辺嵯峨入道家光は肥後の住人で、竹内流を皆伝したあと、山伏から秘術を学び、 力信流柔を創始した。  力信流 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
師範名 略歴
竹内加賀之介久吉 日下捕手開山竹内流三代目師範
官部嵯峨入道家光 久吉門弟、竹内流免許、後に力信流の祖。肥後熊本の住。官部家光は三代 加賀之介より免許を授り、後に工夫して力信流を起流し、全国に広む。特に中国九州に多し。
官部八郎左衛門藤光 略歴不詳
荒川八郎吉光 略歴不詳
片岡興八郎氏光 略歴不詳
官部逸八宗光 略歴不詳
杉山縫殿之輔勝光 力信流美作国の祖。美作国久米南条郡上弓削ノ住
今井左源太源義光 略歴不詳
森原佐兵衛源兼光 略歴不詳
池田善治郎議光 力信流、美作国久米南条郡塩之内村ノ住

○ 竹内判官流
 尼ヶ崎藩士西沢久三郎、のちに柳張斎と号し、久吉から印可を授かり、尼ヶ崎場内で竹内流を指 南した。尾張大納言が尼ヶ崎を訪れたとき、武芸十八般を競い見せたところ、大納言はいたく称賛 して竹内判官流と命名し、以後その流名を号した。

○ 荒木無人斎流
 摂津国の住人、荒木無人斎秀縄は稀代の武芸者で、三代目の久吉から竹内流の印可を授けられ、 向かうところ適するものがなかったという。この流派は非常な広がりを示し、無人斎流と号した。 嫡男の荒木新五郎村治は《荒木流剣》を、もう一人の一男荒木武左衛門尉久勝は《荒木新流》をそ れぞれ創始した。この流派から輩出した塩野奉行は優れた剣の遣い手であったといわれる。

○ 竹内三統流
 荒木秀縄の高弟で中村大蔵行春は、師とともに久吉から竹内流を学び印可を受け、さらに工夫研 究した竹内流を門弟達に伝えた。のち熊本藩士矢野彦左衛門広秀は、この流派を受け継ぐとともに 、作州垪和の竹内道場で修業し、十代目の久雄から印可を授かり、伝来の他の竹内流一派を加え三 統流中興の祖となった。その孫矢野権之助廣次は明治のはじめに日本武徳会範士となり高名をはせ た。廣次の門弟には講道館柔道十段となった佐村父子、村上邦夫、島田秀誓がおり、東海大学松前 重義総長もこれに学んでいる。竹内三統流探求

第一統  ◇ 第二統  ◇  第三統
元祖竹内中務太夫久盛 ◇ 同左 ◇ 同左
二代竹内常陸介久勝 ◇ 同左 ◇ 同左
三代竹内加賀介久吉 
 ◇ 荒木無人斎秀縄
久吉門弟,竹内流免許稀代の達人、荒木流の祖。拳法 躰術は有為の門弟により多くの流派起る。
 ◇小林善右門勝元
久吉門弟、竹内流免許、竹内三統流の祖(2) 四代竹内藤一郎久次
 ◇ 中村大蔵行春
竹内流免許、竹内三統流の祖(1)
 ◇ 高島六兵衛重武
五代 竹内藤一郎久政
渡辺助之進重正 中村源右衛門正信 六代  竹内藤一郎久重
小堀虎之助元方 白石太郎右衛門直之 七代  竹内藤一郎久孝
隈部六郎左衛門親論 高森九兵衛惟之 八代  竹内藤一郎久愛
戸田助左衛門勝就 高森太郎兵衛門惟石 九代  竹内雅門太久居
矢野仙右衛門親英
竹内流九代目雅門太久居の門弟となり免許 戸田孫助勝英 十代  竹内藤一郎久雄
矢野彦左衛門広英 矢野彦左衛門広英 矢野彦左衛門広英
十代久雄門弟、竹内流免許
竹内三統流の祖(3 )、肥後熊本藩柔術指南役。
矢野司馬太広則
竹内三統流師範、肥後熊本藩柔術指南役。 
矢野権之助廣次
竹内三統流師範、日本武徳会範士
講道館柔道乱取 形の制定委員。  
矢野多門太
竹内三統流師範。 
矢野勝利
島田秀誓 矢野権之助廣次門弟、免許皆伝。
松前重義 講道館八段、東海大学総長。 同左 

○ 霞神流
 荒木秀縄の高弟でもう一人の達人、森霞之助勝重は竹内流を修行したあとも研鑽を怠らず、霞神 流を創始した。 

○ 清心流(三神荒木流ともいう)
 森霞之助の高弟であった山本嘉助勝之が創始したもので、清心流と称した。 

○ 荒木刀流
 山本嘉助の門弟で小林儀右衛門が創始したもので、本心一刀流ともいわれる。

○ 霞真流
 森霞之助の高弟であった斉藤伝鬼坊が創始したもので霞真流と称した。

○ 涼天覚清流
 創始者は堀口亭山貞勝で、彼は竹内流の流れをくむ斉藤伝鬼坊の門に入って印可を授かり、また 天心独名流剣を根来独身斎重明に学び皆伝後、さらに工夫をこらして涼天覚清流を創始した。

○ 日本伝三浦流
 三浦玄門斎展暦は堀口貞勝について柔術を学び、修行ののち日本伝三浦流柔術を創始した。この 流儀は各地に伝承された。
難波一甫流(一歩流ともいう)
 三代目久吉の門弟に難波一甫斎久永という人物がおり、本流を極め印可を授けられたあと、さら に工夫してこの難波一甫流を創始した。

○ 難波一刀流剣(真貫流ともいう)
 一甫斎久永の一男、難波一刀斎不伝は父から竹内流を皆伝し、のち工夫して難波一刀流剣を創始 した。

○ 真得流(一甫流体術ともいう)
 一甫斎久永の高弟であった矢野清忠は、師から竹内一甫流を皆伝し、のち工夫して真得流を創始 した。この流儀は山口・広島県の旧各藩で用いられたといわれる。

○ 不遷流
 難波一甫斎久永の高弟の流れを継ぐ高橋猪兵衛尉満政は、竹内流と一甫流を皆伝し、芸州広島藩 で体術を指南した。その門弟不遷和尚(武田物外)は、十二歳から十九歳までの八か年間、竹内流 を学び免許皆伝を授かり、諸国を修行して揚心流、起倒流、渋川流、関口流などを学び、その中か ら不遷流を創始した。不遷流二代目の武田貞治義孝は岡山県玉野市長尾に住し田辺姓となり、不遷 舎を設けた。その子田辺虎次郎義貞、またその子の田辺又右衛門は勇名で、講道館の猛者といえど も田辺には勝てぬ時代があったといわれる。
師範名 略歴
竹内加賀之介久吉 日下捕手開山竹内流三代目師範
難波一甫斎久永 久吉門弟、竹内流免許、難波一甫流
難波一刀斎不伝 竹内流剣、難波一刀流剣
難波氏 略歴不詳
高橋猪兵衛尉満政 難波一甫流、広島藩体術指南役、寛政年間
武田物外不遷禅師 不遷流の祖、拳骨和尚、稀代の武芸達人和尚で、竹内流、難波一甫流、関 口流柳生流、渋川流、起倒流等を修め諸流の長所を以て不遷流を起流す。
武田貞治義孝 不遷流二代。備中長尾(現玉野市)に道場不遷舎を設け、多くの門弟を育 てる。
田辺虎次郎義貞 不遷流三代、盛武館主。
田辺又右衛門義和 不遷流四代、日本武徳会範士。
田辺輝夫 不遷流五代、講道館八段。
武田力 不遷流六代、講道館八段。
  
○ 風伝流(竹内流槍ともいう)
 創始者は中山源兵衛吉成で、彼は竹内流槍を皆伝し、さらに工夫を重ねて風伝流を創始した。こ の槍術は各地に広がり、古河藩、新発田藩、中津藩、尾張藩、彦根藩、信州松本藩などに伝わった といわれる。

○ 制剛流
 創始者は梶原源左衛門直景で、彼は竹内流を学ぶ一方、数流に達し、工夫をほどこして制剛流を 創始した。

○ 御家流
 四代目久次の次男、竹内藤兵衛久秀は武者修行に出て、諸国で多くの門弟を育てた。特に讃岐高 松藩に長く滞在し、その子竹内藤大夫久儔は長じて竹内流を極め、高松藩の御家流として明治維新 まで継承した。明治以降、高松藩最後の指南役竹内緑は日本武徳会範士となった。
師範名 略歴
竹内加賀之介久吉 日下捕手開山竹内流三代目師範
竹内藤一郎久次 日下捕手開山竹内流四代目師範
竹内藤兵衛久秀 久次次男 武者修行途次、讃岐国に没す。家法奥義をきわめ、兄久光の後 を追い武者修行に出る。諸国に高弟多く、長く讃州高松に在って門弟を養育する。後に円心流起流 される。高松藩、竹内流を御家流とする。
竹内藤大夫久儔 竹内流師範、讃州高松藩御家流指南役
竹内兵大夫久氏 讃州高松藩御家流指南役
竹内藤大夫久孝 高松藩御家流指南役
竹内藤大夫久義 高松藩御家流指南役
竹内藤大夫久義 二 高松藩御家流指南役
竹内七五三之助久成 高松藩御家流指南役
竹内才兵衛久尚 高松藩御家流指南役
竹内緑新久 高松藩御家流指南役後、維新となり、日本武徳会範士として活躍する。
片山高義 講道館乱取の形制定委員会委員、武徳会範士

○ 円心流
 久次の次男、竹内籐兵衛久秀の門弟であった北面武士の速水長門守円心は、竹内流を極めたあと 、工夫して円心流組討を創始した。

○ 扱心流
 速水円心の高弟、犬上長勝の子、犬上扱心斎永友は稀代の達人となり、のちに扱心流柔を創始し た。
師範名 略歴
竹内加賀之介久吉 日下捕手開山竹内流三代目師範
竹内藤一郎久次 久吉三男 日下捕手開山竹内流四代目師範
竹内藤兵衛久秀 久次次男 武者修行途次、讃岐国に没す。家法奥義をきわめ、兄久光の後 を追い武者修行に出る。諸国に高弟多く、長く讃州高松に在って門弟を養育する。後に円心流起流 される。高松藩、竹内流を御家流とする。
速水長門守円心 竹内流免許、円心流組討の祖
犬上長勝 円心流
犬上扱心斎永友 円心流免許、扱心流の祖
犬上軍兵衛永保 扱心流達人

○ 呑敵流
 竹内流五代目久政の門弟、竹内藤九郎久蔵の一子、藤葵斎久陳、その一子藤八郎久直の高弟とな った吉里呑敵斎信武が創始者。彼は竹内流の本流を皆伝し、のちにこの流派を創始した。 なお、吉里呑敵斎信武の門弟に呑敵流免許、自由民権主宰者である板垣退助がいます。

○ 竹内起倒流
 備前岡山藩では、池田家本家に起倒流が、天城分家に江戸中期以降、竹内流が伝わり、明治以降 は竹内起倒流が十一代久則の門弟であった小野田阪太郎によって創始された。

○竹内流備中伝
 竹内清大夫の高弟であった山本数衛門によって広められ、地名を冠して呼称された。  
稽古の概要
小具足腰之廻
 
日本最古の武芸書といわれる『本朝武芸小伝』(巻之九、1714年)には「小具足、捕縛はその伝承あること久し、もっぱら小具足をもって世に鳴るものは竹内なり、今これを腰之廻という」とのくだりがあります。
 竹内久盛が愛宕神の啓示を受けて創始した表形二十五ケ条の形が流儀の武術全般の骨格を形成しているため、この小具足腰之廻の習得なくしては、竹内流を学んだとは云えないほど重要なものです。

 竹内中務大夫久盛は、源氏の家系であるため、家伝の剣法を継承していましたが、久米郡垪和郷の三宮山中に籠って武術の修行を重ねている際、愛宕神の化身である異形の人物(白髪の山伏)から相手を瞬時に膝下に組敷く極意を授かったと伝えられています。この武術極意の天授の時期は、天文元年(1532)六月二十四日。このとき久盛は数え年で30歳でした。
 その様子は、『竹内家系書古語伝』によると、「(客)木刀を取て、長きに益無しと、之を二つに折切て小刀となし(注)、これを携えて曰く、之を帯せば小具足也。今、小刀を小具足と云う事蓋し是より言ふのみ。(略)以来、受る所の五件を以て忰家の捕手と称す。小具足組討以て腰之廻と号す。其の業妙域に至る」とあります。
(注)ちなみに『系書古語伝』(江戸後期の編纂と考えられる)よりも時代的に古い『作陽史』(元禄年間に津山藩森家臣の長尾勝明が編纂)には「木刀を二つに折切り」の代わりに「(客)樒柯(しきみの枝)をかり木刀となす。長さ一尺二寸」と記されています。
 竹内流において「腰之廻二十五カ条」は「捕手五件」と共に、竹内流の原点であると共に表芸となります。「捕手五件」は武器を持つ敵を徒手で制する術であり、「腰之廻」は小刀(脇差)又は腰刀を持ちいて、相手を制する技法といえますが、この「腰之廻二十五ケ条」の形が流儀の武術全般の骨格を形成しているため、この小具足腰之廻の習得なくしては、竹内流を学んだとは云えないほど重要なものになります。
 流祖竹内久盛が太刀を両手で扱う剣術を基に、小太刀を片手で扱う小具足術を学んだことから、空いた片手で、打つ、つかむ、極めるといった手技が発達したのです。これが躰術とあいまって羽手(柔術)として体系付けられる事になりました。こうしたことから、「小具足腰之廻之術」が柔の源となったといわれています。
 このように、柔の源になり、柔道の源流となる一方で、竹内流は小具足腰之廻の型を変わることなく現代まで伝承してきており、相手が得物を持った場合の攻防のありさまを往時のままに伝えています。この古伝の形を稽古することにより475年の歳月を超えて現在においても流儀の真髄に触れることができるのです。
小具足とは。腰之廻とは。
小具足腰之廻は、「これ(小太刀)を帯せば小具足なり」といわれるように、小刀を帯び脇差術を身につければ軽易な鎧を着用しているぐらいの武備であるという意味の武術です。
戦国期における「小具足」という言葉は、「具足」に対するものであり、小具足姿とは甲冑(袖付の鎧と兜)を着ける前の段階の軽装であり、この軽武装が、戦国末から桃山時代においては武士の平時における普段の服装の一つとなっていました。竹内久勝が武者修行と号して諸国を巡った時も、桃太郎のような小具足姿であったといわれています。

戦場での「鎧組討(具足組討)」に対して、この平時の軽武装での闘いが「小具足姿での組討ち」すなわち「小具足組討」という言葉を生み、これが略されて「小具足」と称されるようになったといわれています。
「腰之廻」とは、文字通り腰の廻りに帯びるもの(腰のもの)、すなわち小刀(脇差)や腰刀を使用して相手をとりひしぐ術という意味になります。
竹内久盛が愛宕の化身である山伏から授かった言葉「咫尺(しせき)の間の不虞(ふぐ)の会(接近した間合いでの不意の立会い)にも能く万天(天下四方)の雄を撃伏す。これを捕手腰廻りと名づけ、操る所のもの甚だ約(簡約)にして、用を為すもの甚だ広し。我これを汝に付けん」これが竹内流小具足組討の真髄を要約した言葉になります。
小具足腰之廻の型
(下記の型名は、「日本の古武道」参照)
●表型二十五ヶ条
忽離之事、清見之事、脇差鞘抜之事、鴨入首之事、脇指落手之事 脇差横刀之事、脇差入違之事、柄砕之事、大殺之事、倒切之事、右之手取之事 大乱之事、小乱之事、四手刀之事、矛縛之事、脇指心持之事、奏者取之事、鐺返之事、通大事之事 刀落手之事、大殺無外之事、脇指敵胸取之事、大小一籠之事、両手取之事、人質請取様之事
   
   
●裏型五十四ヶ条(技同口伝有)
●小裏十五ヶ条
忽離之事、鴨入首之事、脇指落手之事、脇差横刀之事、柄砕之事、大殺之事、右之手取之事 大乱之事、四手刀之事、矛縛之事、奏者取之事、鐺返之事、刀落手之事、両手取之事、人質請取様之事
●極意八ヶ条
大脇指之事、小脇指之事、仕掛留之事、抜留之事、玄蕃留之事、戸入之事、行身之事、監物留之事、中村留之事
●裏極意五ヶ条
清見之事、鴨入首之事、千鳥之事、附移之事、左座之事
●秘奥之伝七ヶ条之大事
●秘奥之伝十五ヶ条之大事
●秘奥七ヶ条之伝
各流に受け継がれた小具足組討
 日本最古の武芸書といわれる『本朝武芸小伝』(巻之九、1714年)には「小具足、捕縛はその伝承あること久し、もっぱら小具足をもって世に鳴るものは竹内なり、今これを腰之廻という」とのくだりがあります。 
 その背景としては、竹内久盛、久勝、久吉が広く門弟を取り、教えを授けた門弟が六千人以上にのぼり、そのうち、一流を立てた者も多かったことがあげられます。
さらに、これらの各流に受け継がれた小具足組討から新たな技法が生まれてきます。剣術が素肌剣法へと大きく変わっていったのと同じように、合戦の途絶えた江戸期において、小具足組討(捕手、腰之廻)の技法は、徒手本位の格技としての柔術へと発展しました。
竹内流から分かれ出た流派は、下記の他にも多数あります(「流儀の系譜」の「竹内流の支流・分流」を参照)。
扱心流(犬上郡兵衛永保、竹内久盛の門人)
難波一甫流(竹内久勝の門人・難波一甫斎久永)
荒木流(竹内久吉の門人・荒木無人斎秀綱)
曲淵流(久吉門人・曲淵隼人)
高木流(久吉門人・高木右馬助重貞)
竹内三統流(久吉門人・鳥取為人)
双水執流(久吉門人・二上半之丞正聴)
力信流(久吉門人・宮部嵯峨入道家光)
竹之内判官流(西沢久三郎)
風伝流(中山新左衛門)

捕手・破手
 備中伝の拳法躰術(体術)には、手解(てほどき)、受身、当身技、投技、関節技、絞技などが含まれます。立った状態からはじめる立合(たちあい)技、座った状態からはじめる居合(いあい)技のほか寝技(ねわざ)など技術を古伝の形の反復稽古により習得します。相手は、素手または得物(武器)をもって攻撃してくる場合を想定した形となっています。
 拳法体術は「捕手」と「破手(羽手)(はで)」に二分されます。やや大づかみにいうと、捕手は自ら相手を取り押えようとする先制技、破手は相手の攻撃を防ぐ後攻技です。
剣法斉手
 
 竹内家は清和源氏の子孫であるため、久盛は家伝の源氏の剣法の稽古をしていました。久盛は老翁の山伏から小具足腰之廻や捕手を授かり、流儀を創始した後でも、武士としての剣術の稽古は怠らず続けていました。 特色としては、中世の太刀の用法も含み、斎手と称する組太刀を稽古します。一般の古流剣法の技と比較すると体術の要素が多く、当身、投げ、関節を極めるという流れに変化する形も多いため、体術の稽古と平行して行います。
 また、開祖久盛、二代目久勝、三代目久吉は小柄であったため、その体躯を利用して跳躍したり(「飛足」)、小具足腰之廻のように小太刀を用いたり、組討に変化したりする形もあり、「剣術」を主体とする「すり足」中心の足遣いとは異なる点が特徴です。道歌に「かざしたる太刀の下こそ地獄なれ、踏み込んでみよ奥は極楽」という歌があります。
居合抜刀術
 刀を抜き打ちにして敵を討つことを目的とした形です。抜き打ちの一瞬を大切にすることから抜刀術ともいいます。片手で剣を抜き付けた後の、柄を両手で握った場合の攻防の変化は剣術と同様であるため、斎手と平行して稽古する必要があります。
 初心者は安全な模擬刀を使用して稽古しますが、日本刀に関する一定の取扱いや見識を持ち、師範から真剣の使用を許された者(三段以上)は、真剣を用いて稽古します。体の動きと呼吸を合わせることにより、動きの緩急が自在にできるようになるほか、呼吸や精神などの内面観察を通じて、健康・体力維持ができるため、女性や高齢者にも稽古を始めやすいと思われます。また、日本刀は世界に誇るわが国独特の武器、神器であり、美術品である。刀剣の取扱いを通じて、日本の伝統的精神文化を学ぶこともできます。

棒杖術
 
備中伝では「棒」を武器術の修行の基本としています。棒は「打たば太刀 払えば長刀突かば槍 とにもかくにも はずれざりけり」と道歌にうたわれているように、各種武器の基礎となることから、竹内流では棒術の稽古をかかさず行います。入門者は先ず棒術の形稽古からはじめます。棒術では主に六尺棒を使いますが、竹内流では、この六尺(一間)の長さの棒を「けんぼう」といい「剣棒」、「間棒」の字を当てます。
  
この六尺棒(間棒)から、真棒→杖→半棒と、どんどん寸法を詰め長さ一尺三寸の鼻捩子まで多種多様の長さの棒を使い、それぞれの長さ、特性に応じた型・技を修得していきます。 上級者になれば「槍」も「薙刀」も稽古しますが、自分の身の丈よりも長い得物を扱う方法については、初伝の段階から六尺の剣棒術を稽古することにより、小手先でなく体全体(体幹)で棒を操作する事を徐々に習得していきます。
捕縄その他武器術
捕縄
 捕縄は捕手の範疇に入り、迅縄(七尺五寸)や本縄(十六尺五寸)があり、麻製の縄が主に使用されます。
十手術
 十手術は賊を生け捕るための武術で捕手の範疇に入り、捕縄術と一体となっています。江戸時代においては、竹内流は捕手の有名な流派(日下捕手開山)であったため、捕方の門人も多数いました。竹内流備中伝の十三代師範山崎久治信正先生は与力職でした。
 因みに、捕り方の十手は、与力、同心、代官、手先、岡っ引き、番太など役職、身分により、その携行の仕方にも違いがありました。十手は室町時代からあり、戦国時代の長い十手や実際に捕り物に使用する長十手もあります。基本的には小具足腰之廻で使用する小太刀の用法が応用されますが、刀で切り掛かってくるものを捕らえるため鈎や、鍔が付いているものもあり、それぞれ形や材質(木製のものもある)によって、その特徴を生かした使い方になります。
薙刀術・槍術
鉄扇術
小具足腰之廻で使用する小太刀の用法がここでも応用されます。おうぎ(扇)を使うだけに奥儀ということも考えられますが、竹内流の道歌に次のうたがあります。
 「兵法は 奥義も口(くち)も なきものを 口よくなれば 奥もよくなる」
鎖鎌術
 一尺三寸の柄に鎌形の刃を付け、鎌の頭に鎖を付けます。鎌の扱いについては、小具足腰之廻で使用する小太刀の用法が応用されます。
手裏剣術
主に棒手裏剣を使用します。棒手裏剣の場合、直打法または廻転法で打ちます。
竹内流備中伝で稽古できない武術
竹内流備中伝は総合武術ではありますが、稽古できない武術として馬術、弓術、鉄砲術、水術などがあります。これは、竹内流は山岳武道であり、発祥地である美作国が山深い峻険な自然環境であったことによるといわれます。
初心心得
入門
入門に関する手続きは各道場の師範に詳細をおうかがいください。
ちなみに東京・新風館では、「見学・体験」を経て「入会」の手続きを行い、半年から1年程度の稽古を積んだ後に、流祖祭(旧暦6月24日)の日をもって「入門」、すなわち竹内流の「門人」となります。その際、稽古の進み具合に応じて昇級の免状を授かるほか、門人帳に氏名を墨書し、木札を道場に掲げます。
入門者心得之事
竹内流二代目久勝と三代久吉は、竹内流の教えを求めて訪れる何千という門弟の出生、性格、生活条件、また修行を決意した動機も千差万別であったうえ、武士・農民・町人という階級間の対立や差別といった問題を回避するため、竹内流の流儀の掟を定めるだけでなく、ひとりひとりに入門誓書を差し入れさせました。
こうして門弟間同士の礼儀と信義を重くし、師弟の秩序と人間関係についての規範をつくり、それを忠実に守らせたのです。竹内流の掟の原点は、三徳を血となし五常の徳を肉としました。
竹内流を学び修行する門人は、いかに財産があり、社会的地位があろうと、それらに全く左右されない一個の人間であり、人間対人間という平等主義を貫く「掟」が定められたのです。
写真は聴風館の入門者心得之事です
一、師範兄弟子の教えに従う事
一、上下和し道場の興隆と武道の発展に尽す事
一、自流他流によらず一切批判論評せぬ事
一、他流仕合は固く禁止の事、伝授の技を猥りに他人に見せ私闘等に用いぬ事
一、稽古は力を尽し余念を惜しまず継続し、休む場合は届け出る事
一、己の油断から稽古中に怪我等でたとえ一命を失うと雖も一切意義申さぬ事
一、道場の清掃火之用心武具の手入れ怠らぬ事
一、稽古着は柔道着に袴を着用し、清潔にする事
一、稽古出会いの砌は兄弟子より帳付の順に順を乱さず整列し神前に礼拝の事
一、真剣の使用は師範の許可を得る事、使用と保管には細心の注意を払う事
一、授かった免状は大切にし額に入れて適当な場所に掲げる事
一、武道修行は生涯の道と自覚を持ち、常に門人の誇りを失う間敷事
                                以 上
スポーツ保険
上記、入門者心得之事の第六条は、それぐらいの覚悟で真剣に稽古に臨みなさいという教えであり、指導者は常に安全に稽古をすすめるよう心掛けており、稽古中に集中力が欠けたり、気が緩んで怪我することがないように、楽しく、真剣に稽古をすすめるように配慮しています。 ただし、万が一の怪我の場合に備えて、新風館では、入会または入門して稽古される方には自動的に「スポーツ安全保険」(年間1800円)に加入頂いています。
道着
上記、入門者心得之事の第八条の道着については、基本的には白の柔道着を着用します(白であれば、空手着、剣道着、合気道着などでも結構です。薄手の空手着は夏場や携帯には便利です)。
体験稽古に参加される場合は運動できる服装、たとえばジャージやお手持ちの稽古着(紺・黒色など色付き道着)などで結構です。
演武を行うときには、白の道着に紺または黒の袴を着用しますが、稽古時は省略してもかまいません。
なお、竹内流では袴の紐は「十文字」に結ぶのが通常です。また、居合抜刀術を稽古するために「各帯」を締めたり、高段者や師範は演武で紋付袴を着用する場合もあるほか、また、躰術などを稽古する場合、動作を便利にするために「股立ち(ももだち)を取る」(袴の股立ちをつまみあげて、袴(はかま)の紐(ひも)にはさむ)場合もありますので、道着の着け方やたたみ方などの研究もしてください。
上記、入門者心得之事の第九条にもあえうように、武道は常に礼に始まり、礼に終わります。
師範や兄弟子にたいして、また門人の間でも長幼の礼を守ります。また、その逆もしかりで、年下であってもその道の先輩には礼を尽くし、門人同士が互いに相手を尊重する必要があります。
道場に入退場する際は、神棚に対して一礼(神棚がなくても)します。稽古始めには、略礼により師弟の礼を行い、門人同士の稽古を始める場合や稽古を終えるにも稽古相手との相互の礼を行います。稽古の終りには、稽古相手への相互の礼、師弟の礼を行います。
略礼とは「合掌、一拝(礼)、二拍手、一拝(礼)」であり、神前礼拝「(正座にて)二拝二拍手一拝を行う」を簡略化したものです。礼を行う際には、左手、右手の順に手を着き、手を上げる場合は、右手、左手の準ンに上げます(進左退右)。顔は伏せても眼を伏せず周囲を見る「蛙の目付」といった口伝もあります。




愛宕神信仰
竹内流の道場には神棚があり、流儀の守護神である愛宕神を祀っています(公共施設の道場においては、神棚がない場合があります)。(下の左の写真は、宗家愛宕神の祠。右は聴風館の神棚です)。愛宕神社は京都の本社のほかに全国にありますが、6月23日~24日は千日詣りの日で、この日にお参りすれば千日分の御利益があるといわれています。
流祖竹内久盛が神伝を授かった「白髪の山伏」は愛宕神の化身であるとされており、竹内流古武道に伝わっている呪法の一つに次のような真言があります。
「愛宕山大権現、御摩利支天王、秋葉三尺坊、十二天狗、八天狗、アビラウンケンソワカ、アビラウンケンソワカ」。
古来、愛宕神は、火の神(迦具土神)として信仰され、防火・除災の神として崇められました。水の便の悪い山間地では、火災が一番恐ろしい災害であったこともあり、垪和郷を含む吉備高原の各地では愛宕信仰が盛んであったといわれています。
  
木彫仏像摩利支天
20cmツゲ(騎猪像)
竹内久盛は、この愛宕神を武の神として崇拝し、さらに、摩利支天を深く信仰していました。摩利支天はインドのヒンドゥ教の女神で、日月の光や陽炎が神格化されたもので、特に西日本においては武神として地侍層に広く崇められるようになりました。
陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で、つねに日天の前に疾行し、自在の通力を有すとされる。これらの特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があったといわれます。また、密教の曼陀羅に描かれた摩利支天が金剛杵、弓、箭などの武器を手にしていることからの連想ともいわれます。
木彫仏像秋葉(飯綱)権現
総高22cm彩色桧木
秋葉三尺坊とは、宝亀9年(779年)生まれ、名を周国(かねくに)といい、幼少で出家。新潟県栃尾市蔵王堂の院坊に住し、飯綱権現を信仰する修験道者であった。通称、小柄であったことから三尺坊と呼ばれた。
信濃国戸隠山の人で、不動三昧の法を修行し、飛行神通自在となり、秋葉山(静岡県春日町)に降り立ったといわれる天狗の一人です。飯綱権現も秋葉権現も白狐に乗った剣と索(縄)を持つ烏天狗の形で表されている。竹内流の神伝に短剣術と捕縄術が含まれてるのはそのためか。
左は愛宕火伏面、右は羽黒天狗面です(嵯峨面)。
これらの愛宕信仰、真利支天崇拝、天狗信仰は、すべて修験道の世界と重なり合います。山伏たちは、教養人として尊敬され、農耕儀礼にも多く関与し、その奉ずる信仰が垪和郷を含む吉備高原各地に根付いたといわれています。
また久盛は修験道的な信仰とは別に、日蓮宗への熱心な信仰心もあったといわれています。
姿勢
正しい姿勢をつくりましょう。まず「あごをひき」、「後頭部を伸ばし」、「胸をはり」、「背中と腰を伸ばし」、「腹を凹ませ肋骨をしめ」、「尻を気持ち締め」、「ひざをすこし曲げて緩め」、「腰の上に背骨がまっすぐ伸びる」ようにします。そして、かかとと尻の間に紙一枚の隙間ができるくらいに太ももをやや張った状態にします。呼吸は自然呼吸ですが、先ず下腹を凹ましてゆっくり長く息を吐く事からはじめましょう。息を吐ききれば自然と吸気が入り込んで下腹に落ちます。これをゆっくり繰り返します。立った場合も座った場合もおなじです。
「疲れた時」、「落ち込んだ時」、「憂鬱な時」、「元気が出ない時」そんなときは、背筋を伸ばし、胸を張り、腹の底から深く呼吸し、顔を上げて、からだを動かしていれば、落ち込んでいられなくなる。うつ状態も変えることも出来る。身体が生き生きとして力強く、はつらつとした状態になれば、自然と精神状態も内面からそうなっていくからです。
構え
「構え」は武道で最も大切な要素のひとつです。体構えや心構えは、心身が常に無理なく自在に変えられる構えであることが重要です。
不意の攻撃に対しても、防御や反撃の体勢が取りやすい姿勢をとるとが出来るからです。  それには、肩を張らず、ひざや腰の関節をかためず、ゆとりのある体勢をとる心持ちで立つあるいは座すことが必要です。素手や武器を持っても同様である。  竹内流では相手に対峙するさい「平構え」(いわゆる自然正体)をとることが多い。立って座しても両手を両股の付け根に添え、軽く置くのである。つまり両手を前にかざして構えることはしない。しかし、心の中では構えているのである。  この自然正体から、相手の構えや攻撃等に応じて、左右の半身の構えになったり、中腰の構えになったり、各種の構えに変化しても、不意の攻撃に対して、防御や反撃の体勢が取りやすい姿勢をとるという心持ちで構えればよい。  これは打拳や棒術、剣術の基本を行う際に各自、常に自分の構えをその観点から確認してみるとよい。  たとえば、打拳の基本を行うさいに、「手刀受」や「払手」で相手の拳を避けた時に左右の足、左右の手はすぐに次の反撃ができるか、単なる受けとなって自分の体勢が崩されていないかといったポイントから自分の構えを見直すのである。  棒術でも剣術でも、相手の攻撃を受けたときの構え、あるいは相手に攻撃を加えた時の姿勢が、次の体勢をとる場合にとり易いかどうかである。もちろん動きの中で動的なバランスをとるのであるが、自分の動きをコマ送りにして客観視するとわかりやすいのではないでしょうか。
居合腰  残心の気構えで両膝をわずかにまげ、腰をおとした姿勢を居合腰と言う。 居合剣術を立会いで行う場合切り下ろし、血振り、納刀後などはこの居合腰となる。  この居合腰について説明する場合に、こういうたとえ話しがあるといわれると解りやすい。まず、侍が雨傘をさして歩く姿、または陣笠をかぶって歩く姿を想像して頂きたい。  居合腰ができている侍を塀越しに見たとすると、傘だけがスーっと水平移動しているように見える一方、居合腰が十分でない侍を同じようにみると、傘がピョコピョコはねるように見えるというものである。
気合
気合一閃 竹内流の気合声は「ヤー(矢)」「ホッ(保)」「エイ(曳)」の3種類です。
「ヤー(矢)」(または「イヤー(威矢)」)は、相手に打懸かる時、矢を射掛けるように発する声で、敵を威嚇し、自分自信に力と気力を充満させるために発する気合で「矢声」といいます。
「ホッ(保)」は、敵の攻撃に合わせ、変化する時に「矢声」で得た全身の充気を保ちながら、呼吸を整えるために発します。間拍子に合わせて、力を保つように、動きに合わせて強弱大小の声を発します。
「エィ(曳)」は、残心の声です。相手を降伏させる場合に「参ったか降参しろ」という気迫をこめた気合と、威力のある止めで制圧するのですが、そのまま相手を静止させるように(曳くような)残気で、残心をとることになります。 
この「気合」は「構え」や「姿勢」と同じく武道ではもっとも大切な基本です。敵に対したときに、敵を威嚇すると同時に自分の心と身体に勇気をみなぎらせる効果があるからです。 不意の敵の攻撃に対して、臆すると声さえ出ないで体が萎縮してしまう場合がありますが、気合を発することによって、こうしたことを防ぐこともできるのです。
竹内流では、どんなに強そうな敵に対しても、また多くの人前でも鋭い大きな気合が出るように日頃より鍛錬します。大声をだすことは、横隔膜など呼吸器系の器官を鍛えることにもなるため健康にもたいへんよい効果がうまれます。
 入門当初は、大声を出すと体が硬直して、体が動かし難いという方もいるかとおもいますが、徐々に、「気合」をだしても瞬時に緊張と緩和を切り替えられるようになり、声を出しても体の筋肉をリラックスさせたままでいられるようになります。
調息
文字通り「息を調える」ということであるが、竹内流の調息はいたってシンプルです。「深呼吸 深く吸うには まずはききる」です。
 息が上がるような運動をしたとします(例えば、新風館では投技に必要な足腰を鍛錬するためにジャンピング・スクワットを行う場合があります)。  肩で息をついているような状態のときに、次のような手順で呼吸を行うと、呼吸と脈拍が早く落ち着くはずです。
(1)できるだけ大きくおなかを膨らませ深く息を吸い、今度は、可能な限り息をはきます(腹を凹ませ、横隔膜を上げ、肺の中の空気を可能な限り搾り出します)。 
(2)息を搾り切ると自然に、横隔膜が落ち、お腹のへこみが無くなり、浪が返すように呼気が勢いよく流れ落ちてくるので、入った空気をストンと下腹に落としつつ、胸腔を広げて大きく深く息を吸い込む。 
(3) (1)(2)をもう一度繰り返す。
これだけです。
 シンプルですが、(1)~(2)で老廃物を含んだ空気を搾り出して、新鮮な空気を下腹にとり込み(外呼吸)、(3)で下腹に落とした新鮮な空気を腹圧の助けもかりて加圧して、全身の毛細血管まで空気を送り込む(内呼吸)という理屈です。
長寿の秘訣
竹内流の歴代の師範には長寿の方が多い。その秘訣は難行・苦行のベースにあった断食の延長上にある粗食・節食がポイントと思われます。
近年アンチエイジングの研究が盛んですが、その研究の成果として言われている老化を遅らせるための学説は、『生物の最大の使命は生き残ること。何万年も飢えとの戦いをしてきた人間もその例外ではない。カロリーや脂質の摂取量が制限されるという「カロリー制限」が人間のDNAの中にある「長寿遺伝子(サーチュイン(Sirtuin)遺伝子)」のスイッチをONにし「ミトコンドリア」や「免疫細胞」を活性化させる』というもの。 また、りんごの皮、落花生の渋皮、葡萄の皮、赤ワインに多く含まれる抗酸化物質(レスベラトロール、Resveratrol)を多く摂取すると体の酸化が防げるというものです。
古人の叡智の中に、長寿の秘訣として、自然菜食を中心とした少食、咀嚼、柔軟運動などが言い伝えられています、これらは、決して新しいものではなく、古から伝えられた日常の中の秘伝です。長寿遺伝子の存在すらわからない時代、サプリメント等を活用することのできない時代に人間の体の中に眠っているものを引き出していたということです。
こうした竹内流に底流する長寿・自然菜食の発想を個人的に研究している門人(竹内家の末裔である垪和郷(西川)草地家の方)もおります。
野稽古
竹内流で「野稽古をする」という教えがありますが、これは自然環境の変化などに応じた稽古をするという意味もこめられているのではないかと思われます。 相伝家先代の竹内藤十郎久博先生が生前、小野館長に『聴風館のある釈迦谷山(注)に「山之道場」を造成して稽古するのがよい』といわれたので、小野館長は長い年月を掛けて、山を切り拓いて「山之道場」を造られた経緯があります。  (注)釈迦谷山は、昭和初期頃までは「元愛宕(山)」と云われていたそうで、竹内久盛が元服するまでの間、京都今出川に居住していた折に、家伝の剣法の稽古を行うため、代々信仰していた愛宕神の山に、人知れず日参していたと考えられるそうです。今出川から元愛宕まで鴨川沿いに上ったとして徒歩約1時間強といったところでしょうか。
習い方の5ヶ条
■ 第一ヶ条 教えられれば嬉しがること
 教える者にとって、折角教えてもブスッとして何の反応も無い者に出会うと、誠に腹の立つものである。
 師匠は苦労して会得した事を惜しげもなく伝えようとしているのに、弟子は鼻糞をほじくり、上の空で聞いているものなどにおいては、師の心中怒髪天を衝く如くであると知るべしである。
また反対に、一心不乱、懸命な眼差しを見ると、師はどこまでも教えてやりたいとという気になるものである。
ともかく兄弟子、先生に習えば、たとえ痛くとも嬉しい顔をしなさい。
そのうちに、してみせる様な事でも、やがて両者の間に本当に心が通じ、以心伝心の片鱗を知るであろう。
嬉しさや喜びの表現はなにも媚びへつらうのではない。
素直に習う事の楽しさ、教えの有り難さが表情や態度に、自然に表れてくれば理想である。
両者の間に太く強いパイプが通ずれば、多くのものが伝わるのである。
人間が人間に伝えるという事は、技が別個に存在するのではなく、人間がその技を保持しているのだという事を忘れてはならない。
習うという事は、如何にしてまずその技の保持者と太く強いパイプを通じるかという事に留意することが先決である。
ここに人間性を見る深く鋭い洞察力が必要となるのである。
結局人間を知らねば技も知ることができぬという事になる。ともかく教えるものはその確かな反応を期待するのであるから、まずそれに応えることを、嬉しい顔をせよという事にようやくしたのである。
教える者にとっては好ましい人にはやはり教えたい気が起る。
習う者は、この教えたい気を起す事にもっと注意を払う必要がある。指導者は、えこひいきは良くないことではあるが人間である以上多かれ少なかれ好みという事はあるのであり、習う者は、早く師の気風を知り、良い弟子となり師に教える気を起さす事に努力する必要がある。
これはつまり、換言すれば、礼を尽すということである。しかし礼とは、昨今、謝礼、月謝という事を指し、金品によりそれを表すのであるが、やはりまずこの教えに対し、感謝の気持ちを素直にその場で表す事は大切である。
いつの世にも、ものを習う事には、精神的な礼が大切なのである。金品だけの礼では、本当に心から教える気が起るはずがない事を知らねばならない。
■ 第二ケ条 すぐやると云う事
習ったら、教えてくれた人の前で直ちにやってみる事である。そうすると、師はその素直な実行をまず喜ぶであろう。
そうしてそれを手直しして、適当なヒントやアドバイスをして、正しく伝わる事に努力してくれるに違いない。
けれど、これがまたなかなか出来ぬようである。なぜか知らぬが恥らってすぐやらぬ者、また他の流ではこうでしたとか、自分はこう習ったとか何とか、グチャグチャと文句や能書を云う輩がいる。
そんな者は決まって未熟ものである。かなりの熟練者の場合は、かえって熱心に初歩の事でもやるものである。
また、師は時と場合、対象者の力量によって違った指導をする事も多い。
事によっては、今日教える事は過去の事と異なる場合もある。
これは師なりの考えがあっての事であり、弟子はまず今の教えを実行・実践する事に務めねばならない。
師の教えを信頼して、師の前ですぐ実行することにより、具体的にその技の良否を師が修正してくれるのである。
経験の有る者は、それなりに、自己の評価のみでなく、他の者の評価指導をしている師の教授内容をも注意して聞くべきである。初心者は欠点が判別しやすく、見方により参考になる事が多い。
しかし、師は初心者に解り易くする為に、指導や説明等は極端な表現や便宜的な方法を取る場合があるので、上級者はそれなりに修正して理解体得しなければならない。
師の手本をよく見て説明を聞くことはむろんであるが、古武道の技はモーションなので、なかなか説明が難しい。
ビデオテープ等も使用したいが、それとて多かれ少なかれ、動きの流れやその理論、またそれを裏打ちする精神的なものを説く事は至難である。
やはりまずやってみて疑問や不明瞭な点は先輩や師範に尋ねるべきであるが、しかし自分自身で真実を探り、見出す能力を養う事はもっと大切である。
師は弟子の力量に応じて教えるので、時には教えてくれぬ事もある。何故教えてくれぬかを考えてみる必要がある。時には教えないという「教え」もある事を知っておくことは指導者となっては特に、大切である。
ともかく自分の持つ最大の能力を動員してやってみる事が大切である。そして評価を謙虚に聞き、反省してまた繰り返しやる。
反復練習と師の手直し、これを続けることにより、粗方の技が次第に体得されるのである。この段階には先輩や師範が非常に重要な役割を負うのである。
この段階を継続する意志の力があるか否かによって、その人の価値も将来も決定すると云える。一つ事を継続する事により、数多くの事が発見され、より興味も湧くのである。人間は飽きるという性質があるが、また、目標に到達する為に自己を律する意志の力を持っているのである。
■ 第三条 目的を持って工夫するということ
師範・先輩にひと通り習うと、これからが本当の稽古と云うものに入る。しかしこの段階に到達する迄に、通り一遍習ったのみでこれで満足してしまうものが非常に多い。
二~三年でやった気になって止めるものが多い。本当の稽古も知らず、結局道を知らずに終わるのである。いわゆる生兵法というものである。
この病気のような慢心は一番警戒しなければならない。習うという事も、この三ケ条に到って、本物になるか否かの岐路と知らねばならない。
それは目標を定め、目的を持ち、その到達の為に工夫に工夫を重ねる事をするか否かの事である。
技の習得の方法や見方、考え方を反省し、探求、研究を続ける事は容易な事ではないが、ここまで来た道はもう不退転の登山であり、覚悟をきめるべしである。
研鑽の日々は生涯続く事を自覚せねばならない。近頃は何でもインスタントが流行して、簡単にものが出来ると思う風潮があって、自分が苦労して、時間を掛けて、つかみ取るといった意欲に欠ける為になかなか物事が習得できない。
だからいつまでたっても自己の発展も深まりも、広がりもないのである。また少しぐらい工夫しても、目覚しい進歩や効果が直ちにある訳でもない。
多くの場合、一日の稽古は無駄な努力である場合が多い。しかしこの目に見えぬ努力の蓄積が、ある日突然に技に表れて自覚される事がある。努力の甲斐ありとうれしい限りである。
しかしまた続けて行く間に、個々の技や、心の問題や、道そのものにも、不明な点や疑問が出て来て、時には工夫がゆきづまって何もかも空しく見える事がある。
しかしこの解決にはただひたすら工夫の一言、精進の一語に尽きる。反省・工夫・精進これしかないのである。
工夫と一口に言っても、個々の性格や能力によってそのやり方は異なる。けれど、これを時には師や先輩に見てもらう事、また聞いてもらう事が必要である。
とりわけ孤独になりがちなこの段階では、先に行く先輩達も自分と同じく苦しみ、工夫を凝らして進んでいる事を知らねばならない。
他の人の意見を聞く事も工夫のうちである。判らぬところは先輩に聞く事である。反省し、工夫と精進のないところに進歩はないのである。
この工夫の大事を、私の師中山先生が岡大の部誌に「木刀の作り方」のところで、技術の習得は観察、判断、手順にあると、木刀の作り方を例に、ものを見る確かな目を鍛える事が基礎であり、目的を達する為にその工夫が如何に大切であるかと云う事を述べておられる。これは非常に参考になることである。
■ 第四ケ条 他と比べると云う事
工夫を重ねている間に、自信も出来るがまた行きづまる事もある。
自己の工夫・精進にも限界があり、師の指導にも限界がある。
ここで初めて、外へ目をやることが必要になる。昔であれば、武者修行、他流試合の段階である。師の膝元を離れ、自分の力を試し、より腕を磨く事である。
現在においては、他流の研究をする事であろう。今まで体得した事を他と比較することによって、もっと進歩しようという事である。
井の中の蛙にならぬ様、外へ目を向ける事である。世界は広く、何処に名人、上手がいるかも知れない。同好の志を求め、教えを請う事は必要である。
場合によっては、新たに師を求めねばならぬ事もある。その段階に達しておれば元の師は心よくそれを了解するであろう。
しかし多くの場合は、いまだその域に達さぬうちに他流に首を突っ込むのである。
これは誠に困るのである。
本人は全く困らぬのではあるが、新師匠にとっても、旧師匠にとっても、困るのである。
本当は本人にとっては労多くして益なく、害あり、本人自身があとで一番困るのである。
聴風館にもよく他流の者が入門を願って来る事がある。もしこの者がそれなりの力量があれば、私も出来うる限り教えたいと思う。が、まだ未熟な上、次から次へと道場、先生を変えている様な者は論外である。
参考に他流をのぞくと云う事は大変失礼である事を知るべきでありもし他流を研究するならば他流を尊重し、敬意を持って対さねばならない。
必要とあらば師弟の礼をとり、入門して、本来の師匠と同じく心より敬意を持ち。生涯の師として遇しなければならぬのは当然である。
しかるに軽々しく師や流儀を変えるのはつつしむべきである。現実にはそう沢山の道を修得する事は不可能である。
しかし、他の人や他流との比較・検討は大切であり、機会をとらえて、その参考にすべきである。
自己の見識が出来ておれば、すぐ他流のそのままをまねるような事もない。
自己の進歩に役立つ力量の目で見るからである。
この比べることは何も武道だけでなく、他のジャンルでも参考となることは、何でも吸収するのである。
手仕事であっても、人間の事でなくても、犬や魚の事でも、あらゆる現象すべてを参考にすると云うことである。
案外別の事に教えられる事があるものである。
私は古武道の他に尺八や造園を習っているが、どれも互いに相関して、ヒントとなり合ってそれぞれの進歩に役立っている。
一芸は多芸に通じ、また一芸に秀でるものは多芸を解すると云う事も、この習い方のコツを知っているからである。
ものを見る眼の普遍的な共通の見方を心得るからである。自分は武道をやるからと云って、他は何も見ないと云う事は間違っている。
あらゆる事を参考にして、素養を広げなければならない。
あらゆる事に興味を持つ事も大切である。底辺の広いもの程、高さを極める事を知らねばならない。
■ 第五ヶ条 教えると云う事
習い方に教えると云う事は不思議に思うかも知れないが、習う事は教えると云う事によって完成するのである。
教えながら方法や工夫が再度吟味され、経験の反省や整理や記憶の確認がされ、これによって修得した事が完成されるのである。
また、指導する事により創意工夫に磨きがかかり、独自のものが出来るのである。私は習う以上は教えることが出来る様になる事を目標にせよと云う。
それは結局習うことは教える段階を経てやっと完全になるからである。
最後に、人間は百五十万年前に二足歩行をする様になり、手に棒切れを持ったと云われている。
道具が出現して以来、人から人へと使い方が伝えられ、今日の文化がある。
これも技の伝承があればこそである。
教える事、それを習う事がなされたからである。この偉大さを認識しなければならない。
もう故人になったが、フランスの文化相・アンドレ・モロー氏が「世界のすべての国々は物質文化に毒されてしまったが、日本にはまだ精神文化が残っている」と云って日本の諸々の「道」を高く評価している。
しかし、その日本をも段々物質文化に押されて、武道も見せかけのショーとなり、商売とされ、軽薄なインスタント志向者の為のものとなりつつある。
今、我々がしっかり本物を求め、技に心にじっくりと探索する力を注ぐことをしなければ、日本の武道のみならず精神文化は全て、永遠に葬り去られてしまうだろう。
そのため、我々同志は、人数は少なくとも、その力を結集して、真実のものを修得して、後世に伝えなければならない。
私はそれを私の使命としている事を知ってもらいたい。
             
五十四年秋記す 小野真人。
よくある質問と答え
下記は新風館道場における入門に関する質問例と回答例です。他の道場においては各道場の事情により回答が異なる場合がありますので、実際に稽古を行う各道場の師範に詳細をご確認下さい。
Q.私は、武道はやった事がありませんが大丈夫でしょうか。
A.武道やスポーツの経験がなくても、各人の身体能力に応じて稽古をはじめ、継続していただけます。
Q.初めまして。私は女性ですが、稽古は男性の方で限定でしょうか。
A.女性の方にも各道場で稽古いただいています。
Q.昔から古武術に興味があるものの中々踏み出せないでいる者です。すでに36歳になってしまっていますがもう遅いですか?
A.稽古は何歳からでも、その人の現在の身体操作能力をベースにして開始できます。
Q.体格が相当小さいですが小さくても大丈夫でしょうか?
A.流祖久盛や三代久吉は小柄(150cm程度)であったためご心配ありません。各人の体格体系に応じて稽古いただけます。
Q.社会人の為、毎回の稽古に参加できるか分かりません。また、所用による稽古途中での入退出は問題ありませんか?
A.学生の方も社会人の方も学業や勤務優先で稽古いただいていますので、稽古可能な時に参加稽古していただければ結構です。
Q.子どもと一緒に稽古を始めることはできますか?。
A.可能です。なお、親御さんと稽古を始めるよりは、同じ年ごろのお友達と一緒に稽古を始める方が、長続きするようにお見受けします。
Q.竹内流の棒術に興味があります。棒術だけの稽古というのは可能でしょうか。
A.棒術をメインに稽古される方もいますが、竹内流は総合武術であり、体術やその他武器術も棒術と密接な関連があるため、それをご理解いただいたうえで、総合的に稽古いただいています。
Q.どのような稽古が多いのでしょうか?実践形式の練習ですか?それとも演武が多いですか?。
A.古武道では型稽古が中心になりますが、稽古段階に応じて、約束組手や乱取稽古といった実践的な稽古も行います。稽古内容としては、竹内流の技法体系から次のものを中心に稽古してます。 躰術(破手または羽手(はで:柔術)、捕手(とりて))、小具足腰之廻、棒術(剣棒術、真棒術ほか)、居合抜刀術、斎手(さいで:剣術)、その他武器術等
Q.道場はどこにありますか。
A.全国の道場のページをご参照ください。
Q.体験稽古をさせていただくことは可能でしょうか。また稽古場所は、どのあたり(最寄駅など)になりますでしょうか。サイトを見たのですが、見つけられませんでした。
A.見学・体験稽古のご希望は、メールで受付けて調整させていただいております。これは、施設行事にともなう休館日や演武遠征などによる指導者等の不在時などを回避して、応対させて頂くためです。首都圏の道場は公共施設の利用が多いため、使用場所、稽古時間の詳細はメールでお知らせします。
Q.体験稽古に持って行くものはジャージのようなものでもよろしいんでしょうか?。
A.体験稽古の段階では運動できる服装であればジャージでも差支えありません。そのほかに飲み物、タオルなどをご持参いただければ結構です。
Q.私は普段は眼鏡(またはコンタクト)を着用しております。着用している方々は練習時はどのようになされているのでしょうか?
A.稽古内容に応じて、着脱される場合があります。
Q.費用はおいくらぐらいかかるものなのでしょうか。月々、および年間の費用。
A.月謝は子供から壮年まで長く稽古を継続できる範囲に設定しています。新風館の場合、約半年から1年程度の稽古を積んで、毎年、旧暦6月24日付けで「入門」となり、その際、入門料が発生します(それまでは入会というステータスになります)。
Q.さらに稽古着やそろえなくてはならない道具などを詳しく教えて頂けないでしょうか?。
A.稽古着は白の柔道着(または空手着)をご用意いただきます。道具(武器)については当面、道場のものをお貸ししますので事前に準備いただくものはありません。もっとも稽古を始めると自分の道具が欲しくなるので、その場合には各自 で購入いただいています。
Q.他流を稽古している者ですが、竹内流備中伝に入門させてもらっても差支えないでしょうか。
A.。基本的に問題ありませんが、ご本人の心がけ次第のところがあります。なお、その際、現在稽古されている流儀の師範に他流の弟子になる旨の了解を得てください。
 ご参考までに、竹内流の『兵法初心手引事』に「鼯芸(むささびげい)」という訓話(喩話)があるので一部を抄録してご紹介しておきます。
 『一、目録の業は勿論、表型の定法も究らずして人に及ぼさんと欲る者多し。是等の人は石を抱て淵に入が如し。今様の心得違にては諸道成就する事なし。或は人により器用自慢す。我は博く学ぶ杯と言ふて半季或は一年杯習行して極意も極めた心にて諸流に渡るものは、是を喩て鼯芸という。其故は彼?と言ふ獣は鳩の啼声を笑て吾れ五つの芸有と言う。一は山を走る。二には里を走る。三には木に登る。四つには穴を掘る。五には川を渉るといへ共、我が尺より深き所を渉る事あたわず。穴を掘とも身の隠るほど掘事あたわず。木に登る共、地より三尺と上る事叶わず。里とを走ると雖も馬犬程走る事なし。又山を走る共、鹿猪程走る事あたわず。五つの芸一つとして善く有事なし。此故を以て鼯芸と言う也。何程器用にても、一か月二か月又は十月一年杯の稽古は、武術の道に味わひ有事なし。(後略)』
とあります。これは、浅く広く諸流を渉りあるいても、山のふもとをぐるぐる回るだけで、山には登れないという戒めです。こうした話を踏まえてなお、竹内流備中伝にあなたの問題意識の解決への昇り口が見つかりそうであれば一緒に稽古しましょう。

竹内流の関連書籍
「日本柔術の源流 竹内流」(竹内流編纂委員会編 日貿出版社)
【稀少本】昭和54年5月10日初版発行 稀少本のため入手は困難ですが、あきらめずに「日本の古本屋」さんなどをこまめにチェックしてみてください!約3~6万円で購入可。国会図書館等でも閲覧可能。
【ビデオ】日本の古武道シリーズ竹内流(2005.4月刊「秘伝」BABジャパン)
 竹内流は、美作国併和郷一ノ瀬城主竹中務大輔久盛によって創始された小太刀(脇指)や拳、捕縄などを駆使する組討を中心に構成された総合武術である。その神髄は『当流を五体に配り見る時は組討こそ流の心よ』と、極意心要歌に詠まれている。この組討は捕手腰廻小具足を始めとし、徒手空拳の羽手(拳法体術)捕縄術、活法などに発展する。特に羽手では、敵の急所(つぼ)へ迅速確実に当て身をし、これに続いて投げ技や留め技などに展開する。 ◎収録内容 ○棒/表・物見之事、裏・鶴之一足之事/奥・上入 下入○斎手/一心刀、左剣、太刀落、上入○小具足/表・忽離之事 倒切之事 双者捕之事、裏・清見之事 横刀之事○前羽手/片手碎之事、大力落之事、切落○座詰/巻留之事、組留之事、小手返之事○拳張/車留之事、水車之事、拳碎之事、手刀之事○中羽手/紅葉狩之事 奥羽手/難波落之事 ○捕縄/十文字之事 ◎演武:竹内藤十郎久博◎本体価格: 9,800円 +税◎収録時間:24分◎ビデオNO:BCV85
神伝の武術 竹内流
日本柔術はここから始まった!ムーAVブックス 治郎丸 明穂(監修・竹内藤一郎(第14代宗家)MU AV BOOKS 学研) ・内容(「BOOK」データベースより) 日本柔術の草分けとして後水尾天皇より日下捕手開山の称号を賜わり、後に800を越える柔術諸流の源となった、名門竹内流の秘術が遂にそのベールを脱ぐ。
http://www.youtube.com/watch?v=j0KIVAllAfY&NR=1&feature=endscreen
http://www.youtube.com/watch?v=H0l85u0XTsU
「古武道 目録  健康づくり 身体操法編 竹内流 眺雲館」
備中師範竹内流第十六代、眺雲館師範 大島洋志 源真雲先生著・岡田幸仁氏編の書籍が太陽書房(http://www.taiyo-g.com/)より出版されました(2100円税込)。 『(まえがき) 戦国時代、流派の型を敵に知られることは死活問題であり門外不出でした。しかも奥義は一子相伝の伝承であったため途絶えてしまった流派もたくさんあるようです。本書は備中師範竹内流第十六代、眺雲館師範 大島洋志 源真雲先生の著書を編集したものであり、130の基本動作と武術への応用を紹介しています。生命の進化は適者生存、生存の為の戦いは優勝劣敗。時代は流れても厳しい現実は変わりません。真雲師は40年の修行から「人を制するよりも人を活かすことが武道である」と言われます。人を活かす基礎となる健康づくりを主眼に運動を編集、解説しています。(後略)』 この本には、普段意識していない骨格に近い深層の筋(インナーマッスル)を効果的に運動に同調させることや深層の筋で運動を起こすことにより、身体の総合能力を向上、改善させる方法が満載されています。竹内流同門の方でもこうした詳細な身体操作方法を整理・認識して体得するためには必携の書かも知れません。本書は、武道だけでなく、スポーツ、ダイエット、リハビリ、健康法、子供やお年寄りなど家族との触れ合いまで、応用範囲は広く、お勧めの一冊です。
「柔に活きて」
 竹内三統流柔術の著者である島田秀誓師範の遺稿集等を収録した「柔に活きて」という著書が1冊2500円で発刊されました。これは師範の33回忌、熊本城築城400周年を記念して師範のお孫さんである本里秀俊さんが下記の構成で編集・著述されたもので、今回、矢野家現当主の矢野正様、三統流探求の著者である河野真通様も編集に協力されています。表表紙の題字は師範の娘、八代子様の御親筆。裏表紙は中央に島田師範
 「柔に活きて」   第一章 遺稿集   第二章 資料   第三章 追憶(関係者の追悼文)   第四章 竹内三統流概説
 竹内流との関係、熊本の武道史、柔術と講道館柔道との関係等を研究されている方にとっては、おそらく非常に貴重な文献になることと思われます。ご入用の方は、高城(GEF01717@nifty.com)までご連絡ください。
「竹内三統流探求」(河野真通著)
これは絶版となった「竹内三統流柔術(島田秀誓、青潮社) 」という竹内三統流の技術解説書を更に細かく紐解いて解説しただけでなく、矢野家伝来の貴重な資料の掲載もあります(よくぞ、こんな資料を大切に保管されていたと思います)。また古武術史に斬新な切り口で新説を投げかけるなど、貴重かつ稀少な書籍です。
Newsweek 2008.10.15
イギリスにもどったアンナ・シーボン取立師範の紹介記事が掲載されました。
岡山県立図書館 郷土資料館真金倶楽部(まかねくらぶ)蔵書
■ 斗有の竹内流柔術 則武 忠直/[編] 斗有明治百年記念会 1968
■ 三徳抄   竹内流顕彰会 1977
■ 竹内流武勇伝 竹内 藤一郎/編集 日下捕手開山竹内流本部道場 1992
■ 竹内流の三徳抄 竹内 藤一郎/編集 日下捕手開山竹内流本部道場 1992
■ 日本柔術の源流 竹内流 竹内流編纂委員会/著 日貿出版社 1979
柔道一本槍(木村武則、飛鳥新社)
 日本柔道史を駆け抜けた異端児、竹内三統流免許皆伝、木村又蔵。袴と鉄扇とスキ焼きをこよなく愛した武道家の波瀾万丈の人生を通して描く、明治から昭和へのもう一つの柔道史。
竹内三統流柔術(島田秀誓、青潮社)
 竹内三統流の技術解説書。
 最後の一文には「吾学びし竹内三統流 この世より立ち消へん事を憂へ その手数と極意とを 書き残さんとす 書き終わり 深夜一人端座瞑目 往古を忍び 感極まりなし 嗟」とあります。どんな思いで執筆されたかと思うと、本当に感極まります。
秘伝日本柔術(松田隆智編、新人物往来社)
 日本柔術の中でとくに実戦本位として有名な四流派(竹内流、柳生心眼流 、諸賞流、大東流)の歴史、名人伝、技法内容を紹介。
BAB 月刊 秘伝
■ 1.月刊 秘伝(2007.7、BABジャパン) 特集 必ず勝負を決する!仕留める柔道 極め技に賭けた”実戦柔道家”たちの系譜 ━ 関西柔術界のカギを握る竹内流(備中伝)の寝技体系が導く  ”足挫き=足がらみ”という解
■2.月刊 秘伝(2003.10、BABジャパン) 2003年10月号巻頭特集 「形」中心の稽古体系に秘められた古流武術上達の構造 天神明進流兵法、竹内流備中伝、松井健二  ── 竹内流の受身が特集されています。
■3.月刊 秘伝(2000.11、BABジャパン) 特集日本最古の柔術は総合武術の原点だった!広大な武術大河の源流 竹内流腰廻捕手。全ての柔術はここから始まった!日本武術の「大河」竹内流柔術。竹内藤一郎久宗宗家の特集です。
月刊 空手道(2004 5月号、福昌堂)
『第27回日本古武道演武会』記事に竹内藤十郎久武先生のコメントがあります。
美作垪和郷戦乱記(小川博毅、吉備人出版)
○定価1470円(本体価格1400円+税) ○四六判、165頁、並製本○2002年7月29日初版 柔術・武術の原型ともいわれる竹内流古武道は、戦国時代に岡山県久米郡垪和郷の土豪・竹内中務太夫久盛によって創始された武術で、小具足という脇差し短刀術にはじまり、柔術・捕縄術・棒術・剣術・薙刀などからなる総合武術として、四百数十年を経て、現在にいたるまで連綿と伝承されている。  本書では、その開祖竹内久盛とはどのような人物であったのか、どのように生きたのか、久盛とその一族、竹内・杉山氏の戦国乱世における戦いの軌跡を史実に追いながら描いている。○著者紹介 小川 博毅(おがわ ひろき)。1943年生まれ。岡山大学法文学部卒業。東洋史専攻。
日本の古武道月刊
本書では各流派の話や資料に基づき、流派の歴史や技法の特徴、体系が紹介されています。また流派に関連した人物伝や筆者の感想、宗家の修行時代の様子など、本文では紹介しきれなかった部分がコラムとしてまとめられています。
ツボと日本人 東洋動作学への道(蓑内 宗一、発行・いなほ書房、発売・星雲社)
 蓑内先生と親交のあった先代竹内藤一郎久教先生と先代竹内藤十郎久博先生の貴重な写真があります。
格闘伝説BUDO-RA
格闘伝説BUDO-RA(2004 10 vol.20)(編集 有限会社フル・コム 発売元 ナイタイ出版株式会社「特集 究極の実戦武術素手で武器を制する」で竹内流の対武器術が特集されました。 特集 究極の実戦武術素手で武器を制する  フィリピノ・カリ 指導 中村頼永  功朗法の対武器術 指導 横山雅始  竹内流の対武器術 指導 高城人継
MEN's BODY vol.2(2004.6 発行所 インデックス・マガジンズ)
伝統武道を学べ 日本(古武道 竹内流)&韓国(テコンドー)。新風館中野で取材がありました。
知られざる日本柔術の世界
 日本固有の格技といわれる柔術。現在忘れられている複雑多数の古流柔術の世界を掘り起こす。海外に紹介された柔術、名勝負物語、柔道誕生話など、熱き先駆者たちの神話が甦る。第6章には「小具足術由来」が収録されています。
備前刀(山陽新聞社出版局編集 山陽新聞社刊)
『備前刀』B5判 95頁 ●税込価格 1,528円(送料310円) 備前刀の魅力・備前刀を生んだ岡山の風土・タタラ製鉄・タタラ製鉄跡、ほか備前刀を生むに至った風土とその歴史、制作工程など、備前刀の全てと尽きない魅力を豊富な写真とともに解説。
『長船(おさふね)町史』
「刀剣編図録」「刀剣編資料」全二冊。加島進・田住実・片山新助著 長船町刊。 A4判 上製・箱入り 総732頁 、●税込価格 8,000円(送料1,000円)  長船は日本刀の中心地ともいえます。 とくに古刀期、五百年にわたって作られてきた刀はいつでも各地に影響を与え続けました。  室町までの日本刀(古刀)の三大生産地は大分・豊後高田、岡山・備前長船、岐阜・関であるが、備前長船はその地に平成の今日までその伝統を伝えています。  この本には長船の名刀がずらりと並び、写真・図版・解説がもりだくさんで、まさに圧倒されます。 大冊で重さが4.1キロもあり、公共の団体が発行した本ゆえにこの値段ですが、ふつうはこの価格は考えられません。
岡山の奇人変人(蓬郷巌著、岡山文庫、日本文教出版)
 流祖久盛が三宮愛宕社で参篭し、老翁との遭遇場面についてはこう記述されている『西垪和の三宮愛宕社に籠り、山中の立木を相手に、二尺四寸(約73cm)の木刀を揮って剣術の稽古をした。荒修行を続けること六日六夜、七日目の暁に疲れ果てて木刀を抱いたまま眠っているところへ、忽然と容貌怪異の老翁が現れて喚び起こし、彼の業の未熟ぶりをあざ笑った。
 怒った久盛は、木刀で猛然と老翁に打ちかかったが、素手の老翁に苦もなく組み伏せられた。それをはね返して再び立ち向かったが、またもや膝下に組み伏せられ、力つきた久盛は、老翁の前に平身低頭して教えを乞うた。
 すると老翁は、カズラを切って長さ七尺五寸(約2.3m)の捕縄とし、シキミの枝を切って一尺二寸(約36cm)の木刀を作った。一説には久盛の二尺四寸の木刀を真二つに折って一尺二寸の木刀にしたとも伝えられる。そして、そのニつだけの武器を使って「小具足」の術を教え、迅縄という捕縄の法を授け「練磨また練磨」と言い残して、その姿を消した。』
 二代目の常陸ノ介久勝につぃてはこんな記述がある。
 『元和四年(1618)秋、久勝は十五歳になった長男久吉を連れて再び京都へ出た。そして西山の近くに道場を設け「捕手腰回組討師範」の大看板を掲げ、しかもその傍らに「勝つ自身ある者は来り勝負を決すべし」と書き添えた。
 そのころには、すでに戦乱も治まっていたがまだ戦場生き残りの荒っぽい豪傑たちの往来も多く、ずいぶん手ごわい相手が乗り込んで勝負を挑んだ。真剣で挑む相手は、とっちめておいて、武道の真髄たる「扶け助かるの道」と説き聞かせたので、門弟になる者が多かった。また禁裡(皇室)守護の武士や公卿たちの入門者もあり、武芸は真剣必殺の戦場武芸から、心身鍛錬の身だしなみの武道へと発展する時代に入ったのである。』
竹内流三代目の久吉と馬之助の試合についてこんな話しが収録されています。
『久吉は、人並み以下の小男で、身長わずかに四尺八寸(143cm)しかも力は一人前に足らなかったが、幼児からその体力の欠点を術で克服するべく、愛宕社に熱願こめ研究練磨に努めたので、神伝といわれる数種の秘術を会得した。
 十五歳の時、父に従って京都へ行き、竹ノ内流の奥義を天覧に供したことは前述したが、十七歳の時彼もまた父にならって諸国遍歴の武者修行の旅に出た。なにしろ小男の久吉のことだから、それを見くびって挑戦する諸国の豪傑たちを、小気味よくやっつける場面が続出した。
 九州の長崎では、五島隼人という身長六尺三寸(190cm)の大豪と、見物人が人山を築く往来で真剣勝負をやった。久吉は相手の剛力を利用して鮮やかに組み伏せ、一尺二寸の小太刀を隼人の喉もとに擬したので、隼人は降参した。彼は後に竹ノ内流の門下に加えられ、秘伝を受けたが、九州に竹ノ内流を広めたのは、この五島隼人であったろうといわれる。
 津山藩主の所望で、藩士の高木右馬之助という剛力の大男と、どちらも素手で試合をした。大男と相対した小男の久吉は、一歩相手に近づくと、気合もろとも右足で相手の左膝を二発、三発と蹴り上げた。蹴り立てられてあわてるところを押え込むつもりだったが、怪力の右馬之助はビクともしない。そこで久吉は、なお蹴り立てておいて、くるりと反転し相手に背を向けてつっ立った。
 蹴り立てられて怒り心頭に発した右馬之助は豪腕で久吉の体を腕ごと抱え込み、金剛力をふりしぼって締めあげた。締められた久吉が、「古今の剛力と承ったが、聞きしに劣る力でござるぞ。緩るし、緩るし、もはや力は尽き果てられたか。」  と、あざ笑う。右馬之助はますます怒って、次の攻めてにかかる。その一瞬、久吉は体をかがめ腕をのばすと、右馬之助の巨体は、久吉の肩の上で一転して岩石落し、ものの見事にきまって庭の白砂に叩きつけられた。そこをすかさず押さえ込んで捕縄をかけた。  ところが、右馬之助は、怪力にまかせて捕縄をばらばらに切って立ち上がり、再び襲い掛かる。それを空に泳がせて再び取って押え、一尺二寸の小太刀を喉に押し当てて、「三たび無礼をいたさば、一命を頂戴する。」 その時、藩主から「勝負はきまったり」と声がかかって、試合は終わったという。 
高木右馬之助重貞は美作の領主、森忠政の家臣で藩内随一の大力無双の人であったが、竹内流三代目の加賀之介久吉と立ち合い、小兵の久吉に敗れ、竹内流の門弟となった。彼は二代目久勝の教えを受け印可に達し、のちさらに工夫と研鑽を重ね、高木流体術を創始した。』
荒木洋平(武道七流の免許をもつ武道家)の話も収録。なんと!その昔、剣術の試合中に柔術の心得のある相手に睾丸をつかまれて負けてしまい、その後、睾丸を鍛え、自分の体内に痛みを伴わずに収納できるようになったとか。この方は中山取真師範の曾祖母の伯父であるとか。
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神技 三船十段(DVD)
柔道史上最強といわれる伝説的名人・三船久蔵十段の神技を紹介する貴重な1本。徹底的な鍛錬によって‘球’の境地を体現した彼の神技を、スローモーションを交えて解説。 小野館長の祖父彦三氏は岩手県の久慈市(参照三船十段記念館)で三船久蔵と知合い、昭和二十九年に三船氏が柔道経典「道と術」を出版した時にその本を贈呈されたそうです。
宮本武蔵  津本陽著
この本には、久盛公も登場する。「・・・中務坊とは、日本柔術の淵源として後世に名高い竹内流腰まわりと称する、小具足うち技の宗家、竹内中務大輔であった。彼は当時新免家の重臣として竹山城に出仕していた。・・・」といった記述がある。武蔵の父無二斎と交流があり、武蔵にも組打を教えている。
武蔵と小次郎 津本陽
 (P17)武蔵は竹内流の体術をも学んだ。彼の真剣勝負のときの体当りは、竹内道場で学んだものである。 (P38)竹内流の棒は前後左右に飛び跳ねて打つのが特徴である。中務大輔が実戦の体験からあみだした、きわめて破壊力のつよい攻撃法であった。
板垣退助 自由民権の夢と敗北(榛葉英治著、新潮社 P91-P93)
 板垣が暴漢に襲われた件を抄録すると次の通りである。板垣退助は竹内流の支流である呑敵流を修行された方です。  男が躍り出た。手には光るものがある。 「国賊!」      さけぶと、短刀で心臓をねらって退助の左の胸を刺した。退助は若い頃に小具足組打術の免許取りの腕があるので、「何をするか!」と大喝して、右肘で相手の胸に当て身をくらわした。力をいれすぎたので、相手の腹にあたった。男は踏みとどまり、さらに突きかかってくる。その手首を握ろうとして、退助は短刀の刃をつかんだ。それを引かれたので、掌に深い傷を負った。 (中略) 退助は刺客をにらんで、ひと言いった。「板垣は死んでも、自由は死なぬぞ!」(中略)。退助の出血はとまらなくて、そばの者は心配した。岐阜病院の西川医師が診察した結果、傷は右と左の胸に幅二分、深さ三分ほどで、右手の拇子と人さし指の間のほうが骨まで達している。生命には別条のないことが判った。地元警察の山崎警部がきて、退助にたずねた。 「閣下、犯人が脇腹が痛いとしきりに申しますので、調べたところ、黒アザができております。閣下は武芸の心得がおありですかな?」退助は微笑した。「心得というほどではないが、若い頃に小組打の術を習ったのだ。肘で相手の心臓を突いたつもりが、腹に当ったとみえる。心臓に当れば、そのままでは居れまい」 ・・・ などなど、竹内流に関するくだりがあります。