竹内三統流からの 木村ロック 31.3.27
熊本川尻に帰省していた中前師範代が土産に木村ロックを買って来たので、今週末の音羽道場稽古に来ると言う。
木村政彦は肥後に伝わった竹内流といわれる竹内三統流を幼少期に木村又蔵師範に習い、熊本に赴任した嘉納治五郎先生などの縁で、牛島辰熊を師匠として講道館柔道を始める。
「木村の前に木村なく、木村のあとに木村なし」。講道館柔道100 年の歴史において誰がいちばん強いかが常に話題になる際に、「姿三四郎」を著した作家である富田常雄さんが木村政彦を讃えて言った言葉である。富田さん自身が柔道五段 で、父親が富田常次郎。嘉納治五郎とは元々縁があったが、柔道創設期の四天王のひとりで、他には山嵐の使い手で姿三四郎のモデルとなった西郷四郎、鬼と呼ばれた横山作次郎、米国で活躍した山下義韶がいる。
木村政彦の柔道師匠は牛島辰熊である。一度日本一になった。この人は大変なスパルタ教育で、たとえば、毎日うさぎ跳び 1km、腕立て伏せ 1000 回、打ち込み1000 本(大木に帯を結んで、投げの形を練習する)、握力をつけるための空手の巻わら突き 500 回、鉄でできた下駄を履いて歩く、など。巻き藁突きの稽古が昂じて空手に興味を持ち、極真空手の創始者大山倍達師と仲がよかったのは有名。木村の身長は 169cm であるが、胸板の厚さなど驚異的である。得意技は大外刈りであるが、木村の大外刈りは、むしろ大外落しとでもいうべきもので、真下に投げつけられ脳震盪を起す者が続出し、 稽古の相手を断られる始末(注)。のちにプロレスに行った遠藤 幸吉が、「同じ六段じゃないか」と稽古に行ったら、組んだ途端にアッという間に投げ飛ばされ、同じ六段でも格が違 っていたという。
(注)熟達者同士でも危険な技です。指導者は善管注意義務を持って稽古指導ください。
戦後の木村は生計を立てるのがやっとの状態でヤミ屋もしたという。奥さんが病気をし、その医療費を稼ぐためにプロレスに入り、ハワイに渡ったり、ブラジルに行ったりした。ブラジルでは、当時10年間不敗を誇ったグレイシー柔術と戦い、得意の腕絡み(いわゆるアームロック)で脱臼させ、 勝利をおさめた。今でもグレイシー一族の語り草になるが、この時の技など木村政彦流の腕絡みが「木村ロック」である。それに因んで熊本川尻で限定発売されているのが、生誕100年記念焼酎「木村ロック」である。一献いかがですか?
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