#たたずまいの美学 #日本人の身体技法 #武術諸芸の骨(コツ) #矢田部英正先生 2021.2.1
矢田部英正先生にメッセンジャーでご挨拶した時に、『武術には明るくありませんが』と謙遜されていましたが、記載されている内容は、武術武道だけでなく、身体操作一般に対しても造詣が深いため、とても参考になります。抄録するページも自然と多くなります。
日本の仏像は凡そ「なで肩」で、腰回りが太く、下半身にも広がりのある豊かな安定感が見られる。日本の仏像の特徴は、禅の言葉で「上虚下実(じょうきょかじつ)」ともいわれ、日本に古来伝承されてきた身体技法ないし身体能力の必然によるものであることがわかる。
ギリシア彫刻と和様式との様式的特色のなかには、敏速な「動作性」と不動の「安定性」という対局的な身体技法の特徴があらわれている。
運慶による円成寺「大日如来坐像」。
おそらくこの像には実際にモデル、このように完成された坐姿勢を体得した修行僧が、当時に実在したのだと考える。その瑞々しい生命の造形を運慶は見逃さず、背面の細部にいたるまで、正確に活写したのではないだろうか。
鳩尾【みぞおち(水が落ちる場所)、きゅうび(鳩の尾に似てる)、武術的には水月】
の緊張をゆるめようとすると、裏側の
第七胸椎周辺部が後彎曲してくる。
運慶の「大日如来坐像」に見られる胸部彎曲は、他の仏坐像に対して際立っているが、これは鳩尾の弛緩にともなう「上虚」の形態的な指標として見ることが出来る。
さらに「大日如来坐像」の臀部は豊かな丸みを帯びて骨盤が前傾し、ウェストはやわらかく引き締まって大きな「くびれ」を示す。通常このような骨盤の立て方をすると、反射的に胸が張り出し、鳩尾から肩にかけての筋肉が緊張してしまう。この姿勢は、腰や背中の筋緊張をゆるめて、腰背部の柔軟性が充分に養われない限り、容易に実現できるものではない。
禅の坐相を「上虚下実」と表現することはすでに指摘したが、「大日如来坐像」に見られる、腰部の前傾と脱力した上半身の造形には、古来禅の提唱してきた坐法の特色が、余すところなく表現されている。
「腰を入れる」という技術
は、どのような身体状況を意味するのか?
骨盤は「寛骨(腸骨、恥骨、坐骨)」「仙骨」「尾骨」の三つの骨から成り、上半身の重さを支えている。
姿勢や動作を支える「支点」が骨盤に収まっている時には、人体の構造は強く、無駄な力を使わずに体力を維持することができる。ところがウェストの腰椎部分にこの支点が上昇すると、直径わずか五、六センチの「腰椎骨」に荷重が集中し、腰椎周辺の筋肉や椎間板に大きなストレスがかかる。
図36-3(赤枠)に示したのは、上半身をリラックスさせることと、骨盤を前傾させることを同時に実現させた姿勢である。肩から胸にかけては力を抜き、腰部彎曲のピークが骨盤の上縁より下に位置している。このことは、姿勢・動作を支える「支点」が骨盤内部に収まっていることを判断する指標となる。したがってこの姿勢では、上半身の重さが骨盤の全体で受け止められていて、他の二つの姿勢に比べて耐久性が高く、骨格の自然に適った姿勢であると言える。
この状態を保ちながら運動を行おうとする時に、運動上の負荷は、骨盤内部の仙骨へと収まり、椎間板へのストレスは、大幅に軽減させることができる。
仙骨を動きの基点として機能させることができるようになるためには、癒着した仙骨と腸骨を再び分離させ、仙腸関節を十分に動かせるような柔軟性を開拓することが必須の条件となる。
たとえば相撲の「股割り」などは、仙腸関節の柔軟性を再開択し、骨盤の中心から「腰の入った」押しができるようになるための訓練であると考える。
また、キモノで帯を締める習慣も、骨盤と腰椎の結節部分を一定幅の帯で締めることによって、仙骨と腰椎の動きが一体化され、姿勢・動作の基点を仙骨に定める役割を果たしているものと思われる。
「腰を入れる」と古来言われてきた身体技法の根拠とは、仙腸関節の柔軟性を十分に開拓することによって、「姿勢・動作の基点が骨盤内部の仙骨に定まった状態」と定義することができるのではないだろうか。
柳生宗矩の『兵法家伝書』では、「下作り」といって、下半身に一定の思いを置いて、敵と立ち会う前から、心の構を作る心得が記されている。「上は静」「下は気懸」にという教えは、まさに禅のいう「上虚下実」と同様の身体状況が、剣術の文脈で言い換えられたとも考えられる。
宮本武蔵の『五輪書』においては、「兵法の身構え」について、より具体的なる解説が記されている。
肩より惣身はひとしく覚え、両の肩を下げ、うしろ(背後)をろく(陸、平ら、真っ直ぐ)に、尻を出さず、膝より足先まで力を入れて、腰のかが(屈)まざるやうに肚をはり、くさび(楔)をしむる(脇差のさや(鞘)に肚をもたせて、帯のくつろがざるやうにする)という教えあり。
武蔵においても下半身に意識を置くことが説かれている。
「膝より足先まで力を入れ」ることは、中近世の武士たちが合戦において好んだ「足半(あしなか)」による強く踏み出す身体技法を連想させる。
足半(あしなか)
「腰を入れる」という技法は、「坐禅」や「剣術」に限らず、華道や茶道、舞踏などの「身構え」においても、日常の食作法や作業労働においても共通して見られる独特の身体技法である。この技法を支える帯や腰板は、和服の着装様式における「要」としての役割を果たしていた。
この歴史的な文化資本は近代以降の西洋化政策によって、すでに大半の日本人の日常から失われてしまったが、その身体技法の詳細が明らかになる時、古来の身体文化を再生させる可能性も開かれてくるように思われる。
運動原理としての「骨」と「肉」
日本の芸道の世界では、科学的には常識となっている筋力トレーニングが、まったくと言っていいほど通用しない。強い弓を引く弓術でも、鉄の刀を振り回す剣術でも、安定した足腰の強さを要求される舞踏でも、日本の武芸者たちは筋力のみを単独で鍛えることをしない。むしろ武芸の世界では、できる限り筋力を使わないでより強い力を発揮することに重きが置かれている。
古来日本の武芸者たちは、筋肉による力をできる限り抑制して、骨格の自然な構造に基づいて動作することを重要視していたと考えられる。
起倒流柔術の伝書には、
気の扱ひと力の扱ひの差別をいはば、事業のなす所、かろく柔らかにして、すらりとこだはりなきを、気の扱ひと云ひて、好み用ふるなり。重く剛毅にしたる力の扱ひとして、これを甚だ嫌ふなり。
日置(へき)流弓術の名人、阿波研造は
『弓と禅』で、
弓の弦を引っ張るのに全身の力をはたらかせてはなりません。
両手だけにその仕事をまかせ、他方 腕と肩の筋肉はどこまでも力を抜いて、まるでかかわりのないようにじっと見ているのだということを学ばなくてはなりません。
日本古武術の世界では、筋肉を増強させるためではなく、「力を入れない」ために神経を集中させなければならない。
「骨をつかむ」という日本語は、この脱力状態において体感される「骨の感覚」に由来するに違いなく、筋肉を浪費させずに動作する「コツ」をつかんだとき、筋力をはるかに上まわる力を発揮することができる。
呼吸法によって腹圧が高まってくると、骨盤は自然と前傾し、なかでもその中心にある「仙骨」が腹側に引き込まれてくる。この下半身の基礎をつくってから肩の力を抜くようにすれば、背中の胸椎周辺部には自然なる彎曲ができ、動きの支点が仙骨に定まる。この「腰の入った」状態が定まると四肢の動きは自ずと骨盤の中心から力が伝わるようになる。
武術家が、重く剛毅な「力の扱い」を嫌うのは、筋肉を硬直させることによって、運動がその部分の動きとして途切れたしまうからである。四肢や上体の筋肉が硬直してしまったら、もはや力は骨盤の中心からは伝わらない。
武術であれ、競技スポーツであれ、職人の仕事であれ、高度に洗練された技術を要求される専門領域では、身体部位の繊細な感覚操作が必要となる。とりわけ古武術の世界では
、感覚的にとらえる世界が眼に見える身体運動ではなく、見えない「呼吸」や、「気」の流れや、あるいは身体内部の「骨」をとらえてゆくこと等に向けられている。
骨による動作は、意識して身体を動かす以前に、実感として骨が感知できていなければならない。そこで基本となる心得は、まず「観ること」、「待つこと」、無駄に「動かないこと」であり、そこでは何よりも身体内部をとらえる感覚の成熟が必要とされる。
したがって「気の扱い」と呼ばれる「軽やかな力」についても、身体内部を深くとらえてゆく高度な自己観察能力が必要であることがわかる。脱力により強い力を発揮するには、骨格の自然な構造特性を使いこなす高度な内観能力が必要になる。
日本の武芸者たちの身体技法は、見えない身体内部に感覚をはたらかせてゆく技術によって支えられていて、その体験的な認識を言葉であらわすことには、あらかじめ限界が布かれている。しかし、学問の使命は、われわれの経験世界をより深めていく論理的道筋を作ることにある。その意味において、武芸者たちの伝える「気の扱い」や「呼吸法」「内観」等の技法は、自己の身体を深く知る上でも、身体感覚を豊かに発展させる上でも、資するものがある。
日本の古武術における「気の扱い」は、その基本に骨を使いこなす技術があることを指摘した。これはクラシックバレエの世界でも同じ。リトアニア🇱🇹のバレリーナ、マイヤ・プリセツカヤは、還暦を過ぎても舞台に立ち続けることの秘訣について、
私は骨で立っているからです!
と簡潔に答えた。
マイヤ・プリセツカヤ
運動を支える力の源が「筋肉」から「骨」へと深まってゆくと、身体は外見的にも無駄のない自然な美しさを保つようになる。つまるところその技術は「自然体」という基本姿勢へと収斂されてゆく。
人間が本来もっている「自然性」というのは、いつの時代にも変わらずに存在している。結局、それは「骨(コツ)をつかむ」という根拠でもあり、その技術は、日本人一般のレベルにまで普及していった。うまく「骨(コツ)」をつかんだ動きは、ある種の「勢い」を秘めた「姿勢」となり、立居振舞いにも独特の空気感を醸すようになる。
芭蕉の指摘した通り、優れた日本の諸芸術には、風雅な余韻が通奏低音のように流れている。その見えない秩序あるはたらきは、なによりも私たちの身体の内に同じ秩序ではたらいていて、「自然性」という名のもとに、人と世界がひとつにつながっていることを、約束しているかのようだ。
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