十手術、捕手稽古 31.2.7
池波正太郎原作「鬼平犯科帳」の主人公、長谷川平蔵宣以は火付盗賊改役の助役を1787年43歳で拝命している。
長い打ち払い十手が平蔵の愛用の十手として、レプリカが売られているが、陣頭指揮以外で使うことなどあったのだろうか?という疑問に応える本の一節があった(写真)。
長谷川平蔵の師匠は、本所の出村町に道場を構えていた一刀流の剣客・高杉銀平。下総の佐倉の出身で、長谷川平蔵にいわせると、「高杉先生は、江戸も外れの出村町へ、百姓屋を造り直した藁屋根の道場を構え、名も売らず、腕を誇らず、自然にあつまって来たおれたちのような数少ない門人を相手に、ひっそりと暮しておられたが・・・・・名流がひしめく大江戸の中でも、おれは屈指の名人であったと、いまもおもうている」という方。
長十手も刃引き刀の代わりとして携行していても、劇画のように、すぐに取り出して使うことも少なかったのではなかろうか。
十手の原形になる鼻捻や四半棒のような丸木で躱し打をしたり、捕手技と併用して使っても十分痛みが走る。これを鉄の十手で行うと骨や筋が砕けるのではないかと思わせる痛みが走る。
捕方は対象となる容疑者を、絡め捕るのが仕事で、過剰な怪我をさせないようにという思いは、常に働くのではないかと思った次第。
備中竹内流には「絡めて討たず」という考え方が底流しているが、稽古で痛みを知りながら、人を傷付けずにとらえるには、相手よりも何倍も稽古しないと、そう簡単には実現できないことがよくわかる。そんなことをつらつらと考えていた。
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